せめて、無事な夜を


 
 夜。
 昼間は春の暖かさを感じる事が出来るが、夜にはまだ寒さが残るような夜。
 風呂から上がって、鼻歌混じりに自分の部屋に戻る。
 階段を軽快に上りながら、右手にはよく冷えた牛乳。
 やはり風呂上がりにはコレに限る。
 本を読みながら飲もうと、部屋の扉のノブに手を掛けた。
 そして、開く。
「……」
「……」
 暫しの無言。
 目の前の光景を網膜が認識して、脳に正確に伝えるのに十秒。
 理解をするのに、五秒。
 それから俺は右手の牛乳パックを示して、
「……牛乳、飲むか?」
 と、訊く。我ながら間抜けな言葉だな、と感じながら。
「……嫌いじゃない」
 目の前の人影が、そう応える。
 相変わらず静かな――だが、何だか甘えたような声、で。
 静かに長い黒髪を揺らしながら。
 俺の部屋に舞が、いた。

「…………で?」
 台所に戻って、牛乳の入ったコップを舞に手渡しながら俺は話を戻す。
「…………?」
 舞は不思議そうに、俺を見つめる。
「なんで、俺の部屋にいるんだ?」
「窓から入ったから」
「……いや、そうじゃなくて」
 少し頭痛を感じながら、俺は眉間を軽く揉む。
 そして、本棚の上の時計を見る。
 午後十一時三十分。
 来訪の時間としては少し遅すぎる時間だ。
 ――それに、
 視線を戻す。
 舞は両手で牛乳のコップを持って、コクコクと飲んでいる。
 それはいい。
 問題は舞の格好だ。
 寝間着姿――しかも、薄い桃色のウサギがプリントされたパジャマを着てい
るのだ。何故か横にはウサギさんの縫いぐるみもあるし。
 そんな舞が、ちょこん、と俺のベッドの上に座っているのだ。
 ……なんか、可愛いぞ。
 それは、さておき。
「でな、舞。なんで俺の部屋に来たんだ?」
「……祐一と一緒に寝るため」
 その言葉に軽い、眩暈。
「――帰れ」
 即答する、俺。
「……どうして?」
「どうしてもっ!」
 舞から飲み終わった牛乳のコップを取り上げながら、俺は背を向ける。
  少し熱くなった頬を冷ます為に、コップの残りの牛乳を喉に流し込む。
 まったく、何を言い出すんだ。
 吐息を、つく。
「いいから、もう今夜は――」
 振り向いて、舞に言おうとする言葉が不意に、止まる。
 俺のパジャマの裾を握って、舞が俯いていた。
 ……ぐし、
 湿ったような、音。
 ……ぐし…ぐし……。
「祐一……私が泣きそうになったら……一緒に寝てくれるって……」
 細い、声。
 ぐし……、ぐし、ぐし……。
 音の感覚が、狭くなっていく。
「……舞」
「………一緒に……寝てくれるって……約束…した」
 俺は口を噤む。舞の顔は見えない。
 でも、容易に想像できた。
 ぎゅううぅ、
 舞の掌が俺のパジャマを強く握って白くなる。
 あの事件から随分と経って、舞はすっかりこんな感じだ。
 その掌には、かつて剣が握られていた。
 魔物――いや、自分自身を傷付けるための悲しい刃、が。
 その剣はもう、無い。
 代わりに舞の掌には俺がいる。
 俺の服、が。
 俺の腕、が。
 俺の掌、が。
 それが舞の存在を感じさせる。――此処にいるのだと。
 それが舞の暖かさを感じさせる。――俺が必要なのだと。
 間違いなく。
 どうしようもなく。
「…………舞」
「…………約束」
 まったく。
「本当に……どうしようもないな……」
 苦笑が漏れて。舞の掌に俺の掌を、重ねて。
 そっと、舞の顔を胸に押しつけてやる。
 少し、湿った感触があった。

 電気を消した俺の部屋に、
「……祐一」
 舞の言葉が背中にぶつかる。
 距離にして、僅か三十センチ。――そこに舞がいた。
 一緒の布団の中で、舞がもぞもぞ、と動く気配を感じる。
 舞の後ろには布団がもう一組敷いてある。
 流石に一緒の布団に寝るのは拙いだろう、と思って用意したのだが、
『…………約束』
 の、一言と舞の表情でそれは無用の長物となってしまった。
「……祐一」
 また、舞の声。
 先刻より近くに感じる。
「……寝たの?」
「寝た」
 ちょっぷ。
 舞の見事な一撃が、後頭部に当たる。
「……痛いぞ」
「……嘘つくから」
「……」
「……」
 暫しの、沈黙。ゆっくりと時計の秒針が時を刻む音。
「……やっぱり、迷惑なの?」
 最初に沈黙を破ったのは、舞の方だった。
「んなことない」
「……嘘」
「嘘じゃない」
「祐一、こっちを向いてくれない」
「恥ずかしいんだよ」
「どうして?」
「人に寝顔見られたくない」
「私は構わない」
「俺は構うんだよ」
「……」
「……」
「見たい」
「……何を?」
「祐一の寝顔」
「見せない」
「見るまで、ずっと起きている」
「……勝手にしろ」
 そして、再び薄暗い部屋に沈黙の帳が降りる。
 秒針の音。
 カーテンの隙間からは朧月が静謐な光の囁きを漏らす。瞼を閉じると時間の
経過が、曖昧になる。
 ふと。
 背中の舞の吐息が聞こえなくなる。
 動く気配も、無い。
「……舞?」
 応えは、無い。
「……舞?」
 もう一度。――だが応えは無し。
「……」
 不意に。
 背中に冷たい感覚が疾ると同時に、あの時の光景が甦る。
「……」
 自分の躰に剣を突き立てる、舞。
「……」
 緩やかに崩れ落ちて。
「……」
 俺の腕の中で、温もりを無くしていく。
「……」
 その時の気持ちは、忘れたいのに。
 心が凍り付くほどの、記憶。――それが、むくり、と頭を擡げる。
「――舞っ!!」
 恐ろしい考えを振り払うかのように、舞の方に振り向く。
「……っ!」
 言葉を無くす。
「……やっと、こっち向いてくれた」
 俺の鼻先に舞の顔があったのだ。その瞳はじっ、と俺を見ている。
 口元には薄い、微笑みがあった。
「……こ……の……」
 溢れそうになる声を、喉で押し殺して震える。
 そして。
「……祐一」
 溢れる想いのままに、強く舞の躰を抱きしめていた。
 舞は少し、戸惑いがちに身を捩る。
「……祐一、痛い」
「……うるさい」
 まったく。
 こんなに不安なってしまうなんて。
 舞と変わらないじゃないか。
 ――本当に、どうしようもなく。

 今夜。
 細い舞の躰がこの腕の中にあって。
 そして、また安心している俺がいる。
 舞は俺の胸に頬を埋めて。
 幸せそうに、微睡んでいる。
 だけど。
 互いにいなくなりそうになると、不安になる。
 泣き出しそうになるぐらい、に。
 それは互いが、必要だから。
 互いが、どうしようもない、から。
「……祐一」
「うん?」
 柔らかい髪に頬寄せる。石鹸の香りが鼻腔くすぐった。
「……なんでもない」
「……そう、か」
 そんな、やり取りですら嬉しく感じる。
 簡単な言葉なんかでは表せない、この気持ち。
「……舞」
「……う…ん」
 こつん、
 互いのおでこが、触れる。
 唇に柔らかく甘い牛乳の味が、する。
 不安が消えていく。
 安堵の所為か、瞼が重くなってゆく。
 舞からも規則正しい寝息が聞こえてくる。
 不安も、夜も、いつかは終わるのだ。
 朝はやって来る。――誰にでも平等に。
 願わくば。
 舞が、良い夢を見れますように。
 目覚めたら舞の優しい寝顔を見れますように。
 だから、今夜は。

 ――――せめて、無事な夜を。 


                               〈了〉

1999.8.16.UP

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