夏ノ日ノ想ヒ出(Kano-Hino-Omoide)


 
 
 暗闇の中を、少女は歩いていた。

 闇は嫌いでは無い。
 永い――本当に永い時を少女は闇と過ごしてきた。
 己の閉じた瞼の裏に潜む闇、と。
 しかし、其れを一度も怖いと感じたことは無い。
 容赦無い、全てを寄せ付けようとしない目映い白い光は全てを明瞭に現し、
曝け出す。
 が。
 闇は違う。全てを受け入れ、全てを隠し、全てを素晴らしいモノに変える。
 瞳を瞑り、少女はひたすら願いを描き続けた。
 雪の街。
 降り積もる、雪。
 紅い風景に浮かぶ、樹々の影。
 大好きな人達と過ごす、ひととき。
 巨樹。ゆびきり。幼い時の記憶――約束。
 何度も描き続け、闇は全てを受け入れ、見つめていた。
 ただ、静かに、優しく。
 そして、
 少女は羽翼を手に入れた。闇の中から生まれ出ずる、真白き羽翼。
 全てを、真実を曝らけ出してしまう白光からその身を護る為の。
 その羽翼は少女の想いの積み重ねの結晶。闇からの優しい贈り物。
 だから、
 少女――月宮あゆ、は闇が嫌いでは無かった。

「――ゆ――あゆ?」
 優しい少年の声音が背中に触れて、あゆの意識が引き戻される。
 振り返ると、其処には七年前から変わらぬ、微笑み。
 少年の名は、相沢祐一と云った。
「どうしたんだ? あゆ?」
「う、ううん。何でもないよ」
 そう云うと、あゆは歩調を落とし祐一と並ぶ。
 季節は夏。刻は夕闇が通り過ぎたばかりの夜。西日に照らされた生温い微風
が浴衣姿の二人の頬を撫でた。
 祐一は白を基調とした、あゆは藍色を基調にした浴衣を着ている。
 場所は――郊外の何処か。詳しい場所は良く解らない。
 何故なら――、
「うぅ、祐一君。まだ?」
「大丈夫だ。もうすぐだから」
「本当に」
「……多分」
「……うぐぅ」
 二人自身が場所自体を把握していなかったのである。

「蛍が見える丘?」
「……ええ、そうよ」
 祐一は扇形に切られた西瓜を口に含む。井戸水で浸されていた冷たさが水気
と一緒に口に拡がる。
 午後過ぎの日射しが祐一と隣の少女――美坂香里の足下に濃い影を落とす。
 濡れ縁に二人は西瓜の置かれた皿を挟んで、座っていた。
「この時期になると、見ることが出来るらしいんだけど……」
 そう云いながら、香里は視線を庭に向ける。
 其処には妹の美坂栞とあゆが水が溢れるホースを両手に持ちながら、二人で
遊んでいる。自分達の躰が濡れていくのも気にせずに。
「……見に行ってみない?」
「お前とか?」
「まさか。四人で、よ」
 祐一はTシャツの胸元を、はたはた、と扇ぎながら視線を香里から庭先の栞
とあゆに巡らせた。香里と栞はお揃いの薄い碧の袖無しのワンピースを、あゆ
は半袖のシャツにキュロットスカートを着ている。
 五月蠅く、哭き続ける蝉。
 庭に咲く向日葵と昼顔が、夏の日射しの中で揺れている。
 忘れかけていた昔の夏の光景が、此処には存在していた。
 高校生活最後の夏休み。
 友人の倉田佐祐理の誘いで、祐一達は奥地の小さな山村に避暑に来ている。
 祐一、あゆ、香里、栞の四人は一足早く此処に到着しており、佐祐理と親友
の川澄舞は明日、合流することになっていた。
「――名雪や真琴も来れば良かったのにな」
 急な部活の用事で来れなくなった従姉妹の水瀬名雪と、何の用事かは知らな
いが行けなくなった――多分、暑いのが嫌だけなのだろうが――同居人の沢渡
真琴の顔が脳裏に浮かんだ。
「それ、本気で言っているの?」
 その小さな呟きを聴き咎めたような、香里の口調。
「――? なんでだ?」
「もう、いいわ……本当に鈍いんだから」
 最後の部分は祐一に聞こえないように独りごちて、香里は溜息を吐いた。
 不意に。
「――きゃっ」
「――うぐぅ」
 庭から栞とあゆの叫び声。
 祐一達の視線が声の方向に振り返ると、夕立にあったみたいにズブ濡れにな
っている二人の姿があった。しかし二人は遊ぶのを止めようとはしない。
「まるで、子供だな」
「……そうね」
 そんな姿を見て祐一は苦笑を浮かべ、香里はタオルを取りに奥へと向かう。
 栞の掌のホースが細かな霧を吹き、雲一つ無い蒼空で輝いた。
 水滴は中空で渦を巻き、小さな虹輪を描く。やがて虹輪はあゆの足下の水溜
まりに消え、温んだ泥水と見分けが付かなくなり。
 やがて、その水溜まりが乾く頃。祐一は件の丘に行こうと思い始めていた。

 緩やかな斜面の林道を抜けると、月が煌々と輝いていた。
 蛙達や、未だ季節には少し早い鈴虫の鳴き声が聴こえる。
 ――ふと。
 あゆの歩調が止まり、祐一が怪訝そうな表情を浮かべた。
「どうした?」
「うん。……栞ちゃん、大丈夫かな」
 後ろを振り向いて、ふと呟く。
 あの後――庭中を水浸しにした水遊びの後、栞は濡れた躰が原因か少し熱を
出した。差程高い熱でもなく、微熱程度であるのだが。香里は、栞が気になる
から、と云うことで一緒に留守番をしている。
「やっぱり、止めた方が良かったのかな……」
 そう云いながら、不安とも憂鬱とも付かない翳りを見せる瞳に祐一は吐息を
漏らす。あゆの優しさに僅かばかりの微笑を浮かべて。
「んなことは無いだろ。栞も言っていただろ? 『どんな光景か教えてくださ
いね』って、さ」
「う……、うん」
 祐一の視線が前方へ向き、再び歩き始める。
 その足が数歩進んで、止まり、
「一人より、二人で見た方が色々と栞に話してやれるだろ?」
「……」
「栞が羨ましがるぐらい、しっかりと見て――話してやらないと」
 顔を僅かに傾けて、少し戯けて肩を竦めて見せた。 
「――な?」
「――うんっ!」
 あゆの顔には、もう翳りの色は無くなり、小さな躰が祐一に向かって行こう
とする。
 ――突然。
 あゆと祐一の昇っている緩やかな斜面の向こう側から、白い影が浮かび上が
る。それは深く昏い闇中で靄のように曖昧に見えた。やがてその靄は祐一達に
近付くと人の形を象る。
 小さな、少年が微笑を浮かべ其処に立っていた。

 静まった家の一室は、甘い薫りに充ちていた。
 咽の渇きと日焼けした肌の熱さとその薫りに栞はふと、目を醒ます。
 最初は真昏い闇しか見えなかった視界がやがて慣れて、僅かな月光を頼りに
部屋の輪郭が判別できる。
 その中で天井にゆらゆら、揺らめく水輪を見付ける。視線を光の放つ方角に
向けると其処には網戸があり、庭に水を張った桶が見えた。桶の中には水蜜が
数個浮いている。夜風が水蜜の薫りと伴って部屋に偲び込むと一層、甘やかな
薫りが部屋に充ちる。栞は咽の渇きを水蜜で潤したい衝動に駆られた。
 布団から身を起こし、俯せになって桶の水面の月を眺め、遠くに聴こえる虫
の声に耳を傾ける。少し乱れている寝間着の前を合わせる。
 そうしていると背後から、静かに襖を開く音がした。
「……栞。起きたの?」
 優しげな姉の声。
「うん、ついさっき」
 視線を窓の外の水面から離せないまま、応える。
 栞の視線に気が付いたのか香里も芳香を漂わせる水蜜へ視線を巡らせた。
「――食べる?」
「ううん、いい。どうしたの? あれ」
「貰ったのよ。先刻、小さな男の子が持ってきたの」
 両手一杯に水蜜を抱えて持って玄関に現れた少年の姿を思い出す。少年は静
かな微笑みを浮かべて香里に水蜜を渡し、そのまま出ていった。
 近所の子供――にしては随分育ちの良い感じで、ふと何処かで出逢ったよう
な感じがした。遠い過去では無く、ごく最近に。
 寝間着姿の香里は布団の横に座ると、そっ、と掌を栞の額に触れた。
「――ぁっ」
 香里の掌の冷たさに栞は思わず声をか細く漏らす。慌てて掌が、離れる。
「あ、御免なさい。水浴びしていたの。暑かったから」
 そう云うと再び栞の額に、慎重に触れた。今度は栞は驚かずに瞼を閉じて香
里に身を委ねる。僅かに濡れた黒髪からは石鹸の匂いがした。
 暑さで汗を掻いた自分の躰が恥ずかしくて栞は離れようかと思ったが、昼間
の残滓を残す火照った躰は、無性に冷たさを求めた。
「栞……?」
 身を寄せようとする妹に僅かな狼狽を浮かべる、香里。
 だが其れも僅かな間で妹の火照った暖かい肢体を、無意識に腕の中に抱いて
いた。
 虫の声。月の水輪。水蜜の薫り。愛しい細い躰。
 何もかもが夏の一夜の夢の出来事のように、曖昧に気怠く腐喰して――ひと
つに溶け合っていく。
 一緒の布団の中。
 香里は腕の中で何時までも飽くこと無く窓辺の水面に浮かぶ水蜜と月を見つ
める妹を感じながら。栞は冷たく少し濡れた姉の躰と自分の髪に触れた唇の心
地良さを感じながら。
 やがて微睡みが来訪れるまで、そうしていたいと想っていた。

 目の前に少年の背が見える。白い、少年の背が。
 着ているシャツは白く、半ズボンも白く、少年自身の肌も白かった。
 その後ろ姿が夏の闇夜道には朧に光って見える。
 別に走っている訳でも無いのに、どう祐一が速く歩いても少年には追い付け
ない。かと云って見失うことは無く一定の距離を保っていた。
 蛍の見える丘を知っているか、と云う問いに少年は微笑って肯いて祐一を前
を歩き始めて、暫しの時間が経っていた。
 緩やかな斜面を越え、視界に拡がる水田を横切る。
 水田の中から蛙達の鳴き声が重く響く度に、あゆは少し怯えたように祐一に
寄り添う。
「あんな鳴き声が怖いのか?」
 苦笑混じりにあゆに問う。
「うぐぅ……だって」
 既に涙目になりかけている顔を月夜の下に曝しながら、あゆが云い淀む。
 暗闇は嫌いでは無いが、怖いモノは苦手なのは変えようが無い。
 そんな二人を少年は気が付き、歩みを止めて振り返る。
「ああ、ごめん。――ちょっと、怖がりなんでな」
 と、云いながらあゆの頭を撫でながら、水田の鳴き声を指差す。少年は首を
傾げて、細い両腕を指揮者のように小さく振り上げ――静かに下ろした。
「――――え?」
 ふと。
 蛙達の鳴き声が、止まった。
 蛙だけでは無い。虫の鳴き声も止んでいる。
 静寂。
 ただ、ひたすらの、静寂。余りの静けさに、耳鳴りがしそうなほど。
 呆気にとられる祐一とあゆを少年は悪戯っぽく微笑って、中天に懸かる月光
の下で、ゆうるり、と掌を踊らせる。
 最初に聴こえたのは、蟋蟀の鳴き声だった。
 次に、鈴虫の鳴き声。
 その声の伴奏をとるかのように、重い蛙の声が響く。
 畦道の少し向こうにある小さな沼から、ふつふつと水の湧く音。
 沼の水連の真白い花弁が、音と共に開いていくのが見えた。
 山の樹々が熱を帯びた風に煽られ、ざわめく。
 少年が両手を動かす毎に囁きの数が増えてゆき、静かな旋律を奏でた。少年
はその囁きと戯れるかのように小さく密やかに、踊る。
 少年はそのまま歩き出し、囁きが増えていく。
 歩いて踏み締める草が鳴り、黒い土と触れて緑の色が濃くなる。
 河のせせらぎが、清涼な冷気を運ぶ。
 甘い――祐一は気が付かなかったが――水蜜の匂いがした。
 不思議な光景に、心が沁みてくるのが解る。
 旋律と少年の白い影に惹かれて、祐一とあゆは歩き続けた。
 二人の歩く足音すら旋律と混ざり合い、光景の一部となる。
 指揮者は少年、演奏はこの光景の全て。
 水田を抜け、枝の細い朴の樹と木通の蔓で出来た回廊を歩く。歩いた時間が
永かったのか、短かったのか祐一には解らなかった。
 やがて回廊を抜け、水気を含んだ微風があゆの頬を撫でた。
 其処は草原の丘だった。近くに河があるのか、せせらぎが聴こえる。河から
の露を纏った草達は月の下で、鈍く輝く。
 その丘の少し高い場処に、月を背に少年が立っている。
「…………」
「…………」
 祐一とあゆは何も云えずに、少年を見つめていた。何を云ったら善いのか解
らなくて。
 いや、
 云うべき言葉は解っている。ただ、其の言葉は目前の少年と別れる事を意味
しているのが――少し、辛かったのだ。
 少年はもう微笑んでいない。未だ遊び足りないような少し残念そうな表情を
していた。白いシャツが、風に揺らめく。
 祐一は躊躇いながらも、少年に向かって歩き出して、数歩で止まる。
 そして少年を見つめ、ただ優しく――、

「ありがとう――」

 と、云って。

「――――またな」

 静かに微笑んで、言葉を継げた。その言葉に少年は大きく肯いて、両手を大
きく踊らせた。
 ――同時に。
 丘の草達が淡く朧な光を放つ。その光は丘一面に拡がっていき、やがて気紛
れな点滅を繰り返し、草叢から一斉に空に舞い始めた。
「――あ」
 その声を漏らしたのは、どちらだったのだろう。
 蛍、だった。
 一匹や二匹では無い。数百――ともすれば数千の蛍が丘から飛び立つ。其れ
らの光は残像を描き、明るく煌めいた。朧光は祐一の横を擦り抜け、あゆの頬
を照らし、何処かと知れない闇の向こうへと姿を消していく。
 やがて、蛍の光が月の光で掻き消される頃に。
 丘にあの白い少年の姿は、幻のように消えていた。
 あゆと祐一は、互いの顔を見つめて――静かに微笑み合った。

 想い出は還っていく。優しい闇の中へ。
 再び夏の日に出逢えることを信じ、想い描いて。


「はえ〜、そんなコトがあったんですか」
 翌日。民家から少し離れた湖の畔。
 昨日の出来事を祐一は、遅れてやって来た佐祐理に話していた。
 白いサマードレスを纏って佐祐理は水面に素足を浸している。ぱしゃり、と
小さな水飛沫を蹴る姿を、岸辺の石に腰掛けた祐一は眺めていた。
「うん。……もしかしたら佐祐理さんなら、あの子のコト知っているかなと思
って、さ」
 佐祐理のその姿が眩しいのか、掌を瞳の上に翳しながら呟いた。
 あの夜。
 祐一は気が付いていた。あの少年が自分の知っている誰かによく似ている事
に。そしてこの場処を招待したのが佐祐理で、佐祐理にとっても此処は想い出
深い処であろうと云う事も。
 佐祐理はそんな祐一の考えを知ってか知らずか、足下の水と戯れている。
 水面は高く昇ってきた陽光を反射して、水中の魚の鱗を輝かせた。蝉の声が
昨日までは力強く五月蠅かった筈なのに今は弱々しく聴こえる。
「祐一さん――」
 佐祐理が振り向いて、祐一と向き合う。
 風が吹く。湖の水面が波立ち、白いサマードレスの裾が踊った。
 その顔が戯けたように、
「――女の子には、たくさん秘密があるんですよ」
 少し翳って、微笑む。
「そうだな」
 祐一もそう云って、もう二度と訊こうとは思わなかった。
 そして――少し、後悔していた。

「……さて、そろそろ帰るか」
 暫くして。
 掌の土を払いながら祐一は立ち上がり、うん、と腰を伸ばした。
「あははーっ、そうですね。お昼ですし、舞が待っているでしょうし」
「お預けされて、少しご機嫌斜めかもな」
 そんな風に云いながら、佐祐理が水辺から岸に向かおうとするその時――、
「――――え?」
 何かに弾かれたように、佐祐理は岸辺の向こう側へ振り返る。
 其処には白い影が立っていた。
 白いシャツ。白い半ズボン。裾から見える白い肌。
 頭には少し大きめの麦藁帽子を被って、何時から其処にいたのか静かに立っ
ていた。顔は麦藁帽子に隠れて口元しか見えない。
 佐祐理は声が出せなかった。
 ただ、瞳を見開き白い影から目を離せないでいる。
 その影の口元が――、

「――――」

 僅かに動いて、言葉を紡ぐ。声は蝉の鳴き声に掻き消されて良く聴こえない。
 しかし、佐祐理の耳朶にはその言葉がはっきりと届いていた。
「……佐祐理さん?」
 祐一の声に意識が戻された時。
 岸辺の向こう側には、誰も立っていなかった。
「……あ」
「どうしたの? 突然立ち止まって」
「あ、あははーっ。何でもないですよーっ」
 そんな佐祐理の反応に少し祐一は首を傾げながら、再び畦道へ歩き出す。
 佐祐理は少し水辺を歩いて岸に辿り着き、もう一度振り返った。
 岸辺の向こうの白い畦道は陽炎で揺らめいて、逃げ水が浮かぶだけ。だが、
佐祐理は確かに見たのだ。あの白い幻は優しく囁いて――微笑んでいた。
 足下の水面が優しく煌めいて、佐祐理の口元の微笑みを映し出す。

 あの白い少年によく似た、眩しい微笑みが。


                              〈了〉

2000.8.5.UP

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