Starting Over


 心地良い秋風が、吹いていた。
 隆山県立陸上競技場。
 柏木梓はそこで入念に柔軟体操をしていた。
 手首、足首をゆるりと、回す。躰を、曲げる。驚く位、躰が柔らかい。
 動かすたびに、躰が熱を帯びてくるのが解った。
 女子――千五百メートル走。
 あと十分で、始まろうとしていた。
 梓の高校陸上最後の競技、だ。
 この競技が終われば、梓は陸上部を引退する。
 ゆっくりと腿を上げて、みる。――いい感じ、だ。
「梓せんぱーいっ」
 元気の良い声が梓の耳に、届く。
 振り向くと、梓よりやや背が低い少女が立っていた。
 日吉かおり。
 それが少女の名前だった。
「梓先輩、どうです? 調子は」
 少し心配そうに、かおりが覗き込む。
「大丈夫だよ、かおり」
 そう言って、梓は微笑む。その微笑みは少し、ぎこちない。
「……そうですか、最近先輩ちょっと落ち込んでいるみたいだったから」
「……そんな事……ないよ」
 そう言いながら、梓は柔軟運動を、続ける。
「……先輩」
「かおり、ごめん……ちょっと、一人にしていて……」
 かおりから背を向けて、梓は黙々と躰を、動かす。
「…………わかり、ました」
 かおりの走り去る足音が、遠ざかっていった。
 落ち込んでいる――か。
 そう、かもしれないな。
 ふと、梓は考えた。
 そして。
 昨日のことを、思い出していた。

 夜。
 夕食の後、梓は居間の電話機の前に座って、いた。
 受話器を、取る。華奢な指が番号を、押す。
 ――七桁まで押して、指が止まった。
 暫くそのまま、動かなくなる。
 ツー……、
 ツー……、
 ツー……、
 受話器から通信音が、聞こえる。
 電話を、切る。もう一度受話器を、取る。
 ――今度は八桁目で指が、止まる。
 良く覚えている電話番号、だった。
 あと二つ押せば、『アイツ』に繋がるのだ。
 でも……。
 指が、動かなかった。
 ツー……、
 ツー……、
 受話器をまた、置く。
「あたし…………何やっているんだろ」
 梓が、呟く。
 電話して、どうするんだ? 何を話せば、良いんだろう?
 馬鹿な事を、しているな。
 自然に口元に苦笑が、浮かぶ。
 ここ数日、こんな調子だ。
 部活にも、身が入らない。記録も今ひとつ、伸びない。
 明日が最後の競技会、なのに。
 ――だから?
 だから、『アイツ』の声が聞きたいのかな。
 でも――どうしても、勇気が出なかった。
 受話器を戻して、溜息を一つ、つく。
 その時。
 プルルルルルル……。
 電話が、鳴った。梓の心を見通している様に。
 少し、心を落ち着けて、受話器を取る。
「もしもし、柏木ですが……」
『……梓か?』
 ――どきん。
『アイツ』の、声。
 耕一の、声。
 梓の心臓が止まりそうになる。
「あ――」
 言葉が、出ない。喉がカラカラに、なる。
 何か、言わないと。
 何か、言わないと。
 その思考だけが、頭の中をぐるぐると、回る。
『――おい、梓。……どうしたんだよ』
 受話器の向こうで、耕一の声が聞こえる。
「…………何でも、ないよ」
 やっとの事で、言葉を絞り出す。
「なんか用なの?」
 なるべく動揺を隠しながら、ぶっきらぼうに、話す。
 受話器を持つ手が、震える。
『いや、只、みんな元気なのかな……って思ってさ……』
「…………」
『…………梓?』
「…………」
『おいっ、梓っ!!』
「……えっ? あっ……ごめん」
 慌てて、応える。かなり、重症だ。
『梓……』
「なに?」
『お前……何か、悩んでいるんじゃないのか?』
 優しい耕一の、声。
 嬉しい。
 嬉しくて、
 泣きそうに、なる。
「そんな事…………ないよ」
『……本当か?』
「……うん」
『…………』
「…………」
 暫しの、沈黙。互いに一言も、喋らない。
 受話器越しに耕一の吐息が、聞こえる。
 耕一にも聞こえている、のだろうか?
 とくん、
 とくん、
 とくん、
 ――この胸の鼓動、が。
『……じゃあ、切るぞ』
「…………うん」
 そう言って、電話が切れる。
 ツー……、
 ツー……、
 無機質な通信音が、聞こえる。
「…………莫迦」
 寂しそうにそう呟いて、梓は受話器を、置いた。

 なんで、あの時言えなかったんだろう。
 そう思いながら、梓はスタートラインに立っていた。
 いつも――そうだ。
 肝心な時に、大事な事を言えないでいる。
 そんな自分に、苛ついていた。
「位置について――」
 審判員の声が、聞こえる。梓の意識が現実に、戻される。
 そうだ。
 今は走ることに集中しない、と。
「――用意、」
 ぱん。
 と、空砲の音が響く。
 同時に梓の躰が、飛び出した。
 疾い。
 異常な疾さ、だ。
「梓先輩っ!?」
 かおりが驚きの声を、あげる。
 他の部員も声はあげないが、驚いていた。
 当然だろう。
 梓の走りは、長距離走の走り方では、ない。
 短距離走の走り方で、あった。
 瞬く間に他の選手との距離が、離れていく。それでも、梓の疾る速度は、落
ちない。
 ――まるで。
 何かを振り切る様に、梓は走っていた。

 耕一。
 あたしね、ずっと言いたかった事が、あるんだ。
 でも、あんたの目の前に立つと何も言えなかったんだ。
 馬鹿みたい、だよね。
 でもね、
 こうして走っていると、何だか素直に言えそうな気が、するんだ。走ってい
るときは、余計な事、考えなくて良いから。
『ありがとう』
 小さい時、溺れたあたしを助けてくれて。
 あの時はただ怖くて、泣いてばっかりだったけど。
 本当はこの言葉を、言いたかったんだ。
『ごめんね』
 いつもいつも憎まれ口ばっかり、叩いて。
 そう言えば、思いっきり殴った事もあった、よね。
 あれは多分、嫉妬していたんだと、思う。
 振り向いて欲しかったんだと、思う。
 ほら。
 今のあたしなら、何でも素直に言える。
 だから。
 ずっと、
 ずうぅぅっと、言えなかった『あの言葉』も言えるよ。
 ――あれ?
 何だか、胸が苦しいよ。
 息も出来ないよ。躰中の力が、抜けていくよ。足が、動かないよ。
 どうしたんだろ。
 ああ、そうか。
 あたしが無茶な走り方をしたから、なんだね。
 当然だよね。
 今どの辺を、走っているんだろう?
 かおりの声が、聞こえるな。
 え?
 あと、百メートルだって?
 千四百も、無茶なスピードで走っていたんだ、あたし。
 ホント、馬鹿みたい。
 でも、もう動けないな。
 ほら。
 足が、止まっている。ちょっと力を抜けば、倒れそうだよ。
 目の前には、ゴールがあるのに。
 はははは。
 結局、あたしって最後に意気地が無いんだよね。
『あの言葉』も結局、言えなかったし。
 もう、いいや。
 あと、ちょっと、だったけど。
 ――もう、いいや。

『――ずさ』

 ん?
 誰かの声、だ。

『……あずさ』

 あれ?
 あたしを呼ぶ声、だ。

『梓っっ!!』

 この声って……、
 耕一?

 朦朧とした意識で、梓は顔を上げた。
 ゴールの向こう。
 其処に一人の男の姿が、あった。
 耕一が立っていた。
 梓の瞳を見つめ。両手を拡げて。
 大きな声、で。
「来いっ!梓っっ!!」
 と、言った。

「……耕一」

 梓が、歩き出す。

「……耕一」

 ゆっくりと、前に。

「こ、ういち……」

 足が、速くなる。

「耕一いいぃっっ!!」

 梓は、走り出した。
 足が、痛かった。そんな事、関係なかった。
 息が、苦しかった。そんな事、関係なかった。
 たとえ、躰が千切れても構わなかった。
 力の限り、走った。
 そして。
 梓はゴールを走り抜け。
 耕一の胸の中に、飛び込んでいった。

 ――ねえ、耕一。
 あたしを支えていて、くれる?
 もう、クタクタなんだ。
 疲れちゃった、よ。
 ほら、心臓がドキドキしている。
 息も、絶え絶えだよ。
 本当に疲れちゃった、よ。
 ずっと、意地を張るのも。
 この気持ちを隠しておくのも
 もうちょっと、このままでいさせてよ。
 ――ああ。
 あんたの胸の中ってこんなに気持ちよかったんだ。
 知らなかったな。
 ちょっと損していた、気分だよ。
 ね。
 聞いてくれる?
 ずっと言いたかった『あの言葉』。
 無理にでも、聞いて貰うよ。
 え?
 俺も言いたかった事が、あるって?
 うん。
 じゃあ、あたしから言わせてくれる?

 あたしね――――。

                               〈了〉

1998.3.4.UP


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