ALWAYS‥‥


 月がいつになく丸い。
 空の端から落ちてしまいそうに、ふっくりと丸かった。
 少し白く濁った光を、優しく注いでいる。
 柏木家の屋敷。
 濡れ縁に腰掛けながら、その月を見ている男が、一人。
 柏木耕一。其れが男の名前だった。
 Tシャツに薄手のスエット・パンツを着ている。
 横に置いてある、腕時計の針を見る。
 時針は一時を指していた。
 夜中の一時、である。
 小さな吐息を、耕一は夜風にゆるりと溶かす。
 耕一は自分の部屋で、待っていた。
 ただ、一人のひと、を。

 大学生最後の夏休みに入って、耕一は直ぐ様隆山市へ向かった。
 大切な従姉妹達と夏休みを過ごす為、に。
 そして。
 ある小さな決心と共、に。

「ただいま」
 そう言って、耕一は柏木家の扉を開く。
 ぱたぱた、とスリッパの音がして小さな影が現れた。
 小さく息を弾ませて、少女が耕一の前に立つ。
 肩の辺りで、ばっさりと切った黒髪。
 濡れている様な艶やかな黒髪の下から、澄んだ真っ直ぐな瞳が耕一を見つめ
ていた。
 柏木楓。
 其れが少女の名前、だった。
「お帰りなさい、耕一さん……」
 そう言うと、楓は嬉しそうに瞳を細めた。
「ただいま、楓ちゃん」
 耕一もそう言って、微笑う。
 楓は三和土に降りて、耕一の荷物を両手で受け取る。
 そして、耕一と楓は柏木の屋敷の廊下を肩を並べて歩き出していた。
「……そう言えば、耕一さん。就職が決まったそうですね」
「うん、何とかね……千鶴さんは仕事かい?」
「はい……梓姉さんと初音もそろそろ帰って来ると思いますけど……」
「そっか……梓の手料理も久しぶりだな」
「ふふ……今日は私も手伝うんですよ、楽しみにして下さいね……」
 楓の微笑み。
 あの事件以来、楓はよく微笑うようになった。
 耕一にとってそれが一番嬉しい事、だった。
 色々な事を話しながら、二人は耕一の部屋に到着する。
「……じゃあ、耕一さん。後で居間に来て下さいね」
 耕一の荷物を楓は畳の上に置いて、部屋から出ていこうとする。
  その時。
「…………楓ちゃん」
 耕一の手が楓の腕を、掴んでいた。
 強い力で、はない。
 不安そう、に。
 頼りげ、なく。
 優しく、楓の腕を掴んでいる。
「耕一…………さん?」
 楓が、訊く。
 不思議そうに耕一の顔を見る。
 その顔は、何か大切な決心を胸に秘めている様に、見えた。
 二人だけの部屋に、暫しの沈黙と静寂。
 やがて――、
「大切な……話が……あるんだ」
 途切れ途切れの耕一の、言葉。
 その言葉に、楓はゆるりと頷いた。

 ――溜息。
 既に何度夜風に溜息を溶かしたのか、耕一は覚えていなかった。
 何で、あんな事を言ってしまった、のか。
 言えば良かったのか?
 そうかもしれない。
 言わない方が良かったのか?
 そうかもしれない。
 耕一の口元に自嘲の笑みが、浮かぶ。自分の迷い、に。
 でも、後悔はしていなかった。
 それだけは揺るぎの無い、事実。
 夜空に浮かぶ白月を、見る。何処からか、虫の音が聞こえる。
 りーい、
 りーい、
 りーい……。
 耕一に聞こえるのは、その虫の音だけであった。
 それ以外の音は聞こえない。
 時計は既に二時を指していた。
「…………やっぱり、駄目か」
 そう思った、時。
「綺麗な月……ですね」
 と、後ろで声が聞こえた。
 同時に背中に暖かい、感触。
 耕一の躰に、細い腕が回される。
 その腕に耕一は、そっ、と掌を重ねる。
 肩胛骨の辺りに吐息が感じられる。
 熱い、吐息が。
 耕一がゆっくりと振り向くと、其処には楓がいた。
 その躰に、大きめの寝間着。
 頬が紅潮しているのが、薄暗い月明かりの下でもはっきりと解る。月光の櫛
が、楓の黒檀の髪を梳いて淡い藍色を放っている。
 その瞳は月と耕一顔を映して、濡れ輝いていた。
「……微笑っているんですか?」
「……うん」
 楓の言葉に、耕一が応える。
 耕一の口元には、微笑み。
「……泣いているんですか?」
「……うん」
 耕一が楓の言葉に、応える。
 耕一の瞳には、小さな涙。
「……どうしてですか?」
「…………それは」
 楓の頬に耕一の手が重なる。
 そして、優しい接吻。楓の唇は、震えていた。
「…………君が、来てくれたから」

 君が、欲しい。
 一緒にいて欲しい。
 そばにずっといて欲しい。
 二人で暮らそう。
 これから、ずっと。
 今夜、部屋に来て欲しい。
 朝まで待っているから。
 嫌なら、来なくても良い。
 ずっと、待っているから。
 耕一は楓にそう言ったのだ。

 耕一の部屋の中。
 耕一は楓の温もりを感じていた。
 楓は耕一の暖かさを感じていた。
 熱い肌。
 冷たい滴。
 月の光が旋律を、奏でる。
 二人の吐息を、伴奏に。
 ゆったりとした、ワルツ。
 互いの躰の隙間を埋め合うかの様に、抱き合う。
『過去』からの。
 そして、『未来』からの。
 二人にしか聞こえない、旋律。
 その旋律は朝まで続くだろう。
 いや。
 これから、ずっと続いていくに違いない。
 その曲名は……、

 ALWAYS――『いつまでも。』

                              〈了〉

1998.6.30 UP

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