さよなら、夏の日。


     〈序章〉

 白い月の光の、下。
 俺は千鶴さんを抱きしめていた。
 千鶴さんの骸、を。

「妹達の事……お願いします……」

 それが最後の言葉、だった。
 千鶴さんの命の炎が最後の煌めきを、見せる。
 美しい、光輝き。
 それが、
 不意に――、消える。
「…………千鶴さん?」
「…………」
 俺の言葉に千鶴さんは、応えない。
「…………千鶴さん?」
「…………」
 その顔は眠っているかの様に、見えた。
「ねぇ、起きてよ……一緒に、家へ帰ろうよ……ねぇ……」
 千鶴さんの躰を軽く、揺さぶる。
 千鶴さんは、応えない。
 腕の中の骸が、重くなる。
 千鶴さんの瞳は、開かない。
 俺の手を握っていた掌が、ぽたり、と地面に落ちる。
 千鶴さんの吐息が――聞こえない。
「ねぇ、冗談だろ? ……また、いつもみたいに俺をからかっているんだろう?」
 いつもなら、「冗談ですよ」と言って千鶴さんは微笑む、筈だった。
 でも。
 千鶴さんは、もう、微笑わない。
 俺が、笑おうとする。
 口が上手く、笑みの形をとれない。
 笑い声も、出ない。
 喉の奥からしゃっくりの様に途切れ途切れに、息が漏れる。

 く、
 く、
 くふっ、
 くふっ、
 くふっ……。

 これは笑い声なのだろう、か ?
 いや。
 多分――これは、違う。
 何も考える事が、出来ない。
 真っ白、だ。
 俺は千鶴さんに、頬を寄せる。
 冷たい頬、だった。
 頬は涙で濡れていた。
 その時。
 俺の中から、熱いものがこみあげてきた。
 それが躰中に這入り込んで、くる。
 俺の瞳の中から、それは零れ出ようとする。
 それは涙に、なった。
 俺の口の中から、それは溢れ出そうになる。
 それは嗚咽に、なった。
 俺の心の中を、それは切り裂いた。
 それは――――哀しみに、なった。

 う、
 う、
 う、あ、あ、あああ……、
 うあああああああああ…………、

 俺は、泣いた。
 夜空の満月に届けとばかり、に。
 大声で、泣いた。
 泣き続けて。
 泣き続けて。
 躰中の哀しみを吐き出すかの様に。
 ただ、泣き続けた。


     〈1〉

 あれから、一週間が経とうとしていた。
 俺はあの日、千鶴さんの遺体を担いで柏木家に戻った。
 その時の梓達の顔を俺は直視する事が、出来なかった。
 自分の部屋に閉じこもり一晩中出てこなかった、梓。
 俺の胸で泣いていた、初音ちゃん。
 そして。
 ただ、俺の手を握りしめて側に座っていた、楓ちゃん。
 誰も俺を、責めなかった。
 その気遣いが俺にはとても、辛かった。
 いや。
 俺は誰かに責めて欲しかった、のだろう。
 千鶴さんを見殺しにしてしまった自分、を。
 救えなかった自分、を。
 のうのうと生きている自分、を。
 責めて欲しかったのだ。
 蔑んで欲しかったのだ。
 二日後。
 千鶴さんの葬儀が身内でのみ、ひっそり、と行われた。
 参列者は僅かに、五人。
 梓。
 楓ちゃん。
 初音ちゃん。
 鶴来屋の現社長の、足立さん。
 そして、俺。
 互いに喪服を着ている。
 線香の匂いを喪服に染み込ませながら、俺達はただ黙り続けていた。
 誰も泣く者は、いない。涙なんか既に枯れ果てている。
 でも。
 心は、未だ泣き続けていた。
 桐の棺桶の中で眠る、千鶴さん。
 その顔は驚くほど綺麗で、穏やかだった。
 ふと、目覚めの口づけをすれば目を覚ますのではないか?
 昔読んだ童話のお姫様、の様に。
 そんな錯覚を、覚える。
 そんな安らかな顔をして眠っていた。

『妹達の事……お願いします……』

 頭の中にまた、あの言葉が蘇る。
 千鶴さん……。
 俺は問いかける。
 俺はどうしたら、いい?
 千鶴さん……。
 問いかける。けれど答えは、得られない。
 大好きな貴女は、もういない。
 愛していた貴女は、もういない。
 貴女の顔はもう、微笑わない。
 貴女の腕はもう、俺を抱きしめてくれない。
 こんな世界、で。
 こんな意味の無い世界、で。
 俺はどうすれば、いい?
 何をすれば、いい?
 梓を守って生きていくのか?
 出来る訳がない。
 楓ちゃんを守って生きていくのか?
 出来る訳がない。
 初音ちゃんを守って生きていくのか?
 出来る訳がない。
 千鶴さんを守れなかった俺、に。
 愛する女を守れなかった俺、に。
 出来る訳がない、のだ。
 葬儀の夜。
 夢を、見る。
 幼い頃の夢、だ。
 初めて千鶴さんに会った日。確か、暑い夏の日、だった。
 俺の目の前に現れた、綺麗な女性。
 白いセーラー服がとてもよく似合っている。
 それが千鶴さん、だった。
「初めまして耕一君……、私が長女の千鶴です」
 優しい声。
 彼女の微笑みはどんな日差しよりも眩しかった。

 その時から俺の心は、彼女に奪われたのだ。

「よろしくね……耕ちゃん」
 千鶴さんの白い掌が俺の頭を撫でようと、する。
 だけど。
 俺は千鶴さんの掌をはねつけた。
「あっ……」
 と、言って驚いた顔をする、千鶴さん。
 違う。
 違うんだ。
 こんな事をしたかった訳じゃない。
 子供扱いして欲しくなかったんだ。
 ずっと、微笑んで居て欲しかったんだ。
 千鶴さんの顔が悲しく、曇る。
 あの時と同じ様に。
 あの時?
 あの時って、何時のことだ?
 目の前の風景が、歪んで変わっていく。

『……私は……、貴方を殺さなくてはいけない……!!』

 千鶴さんの悲痛な、叫び。
 そう、あの時だ。
 満月の夜。
 俺と愛し合った、千鶴さん。
 そして、あの貯水池で二人で歩いて……。
 親父の伝言と本当の気持ちを知って……。
 泣いて……。
 千鶴さんは俺を殺そうとして……。
 そうだ。その時の顔、だったんだ。
 ねぇ、千鶴さん。
 どうしてそんなに悲しい顔をしているの……?
 微笑ってよ。
 微笑ってよ。
 どうして。
 どうして……?

 また、あの夢だった。
 一週間経った今でも毎晩見る、夢。
 小鳥の囀りが、聞こえる。
 朝。
 日差しは真夏特有の厳しさが和らいで、秋の訪れを肌で感じる。
 額に手を当てた。
 ぬるり。
 冷たい感触が、伝わる。
 どうやら、汗を掻いていたらしい。
 濡れた掌を、見る。
 その掌は、紅く、染まっていた。
「――ひっ……!!」
 血だ。
 紅い血。
 一体、誰の血だ?
 俺の、か?
 いや。
 これは……千鶴さんの血、だ。
 俺の目の前で『鬼』に殺されて。
 俺の腕の中で、死んだ。

 ひいっ、
 ひいっ、
 ひいいいいっっ、

 自分でも情けない程の、叫び声をあげる。

 お前が殺したんだ。
 愛した女性を。
 オマエガコロシタンダ。
 アイシタヒトヲ。
 お前が…………。
 オマエガ…………。

 頭の中から声が、聞こえる。
 違う。
 俺が否定する。
 違わないさ。
 俺が肯定する。
 お前はこの地上で最強の生物なのに、何も出来なかった。
 何の為の『鬼』の力だ? お前は何故、生きているんだ?
 意味の無いこの世界、で。
 何故、俺は――――。

「……耕一お兄ちゃん」
 その声で、俺は我に返る。
 俺の掌には血などついてなかった。幻覚だった、のか?
 障子の向こうから、小さな影が姿を現す。
 初音ちゃん、だった。
「お兄ちゃん、起きているの……?」
 障子を小さく開けて、初音ちゃんが覗き込んでくる。
「ああ……、初音ちゃん、お早う」
 顎から伝う汗を拭いながら、俺は呼吸を落ち着ける。汗を掻いていた為か、
俺の躰はすっかり冷え切っていた。
「大丈夫? 何か、うなされていたみたいだけど……」
 ぱたん、と後ろ手で障子を閉めた初音ちゃんは、俺の布団の側に座る。
 心配そうに俺の顔を、覗き込む。
「大丈夫、大丈夫、ちょっと怖い夢を見ただけだから」
 少し戯けた様に、俺は応える。
「怖い夢?」
「ああ」
 そう言って初音ちゃんの顔を見た俺は、はっ、と息を飲んだ。
 其処に千鶴さんが座っていた。
「どんな夢、だったの?」
  ――どんな夢を、みたんですか?
「耕一お兄ちゃん……?」
 耕一さん……?
 千鶴さんが微笑む。
 膝が、震える。喉がカラカラ、だ。
「お兄ちゃん……?」
 意識が戻される。
 其処に初音ちゃんが座っていた。
 千鶴さんは何処にも、いない。いる筈が無い、のだ。
「ああ……大したことじゃないよ」
「そう…………じゃあ、そろそろ朝御飯だから居間に来てね」
「ああ、分かったよ」
 短く会話を交わすと、初音ちゃんは障子の向こうへと姿を消す。
 パタパタパタ……。
 初音ちゃんのスリッパの音が、遠ざかっていく。
 俺一人がまた、朝の光の中に残される。
 俺は布団に顔を埋める。布団を握りしめて、掻きむしる。
 震える。
 震える。
 肩、が。
 足、が。
 躰、が。
 心、が。

「…………千鶴さん」

 ただ、それだけを俺は絞り出す様に、呟いた。


     〈2〉

「――待って、楓お姉ちゃん」
 学校への、登校の途中。
 柏木楓は不意に、声をかけられた。
 振り向くと、其処には妹の初音が向かって来ていた。
 楓は立ち止まって、初音を待つ。
 はあ、
 はあ、
 と、初音が息を乱し赤い顔をして、楓の横に並ぶ。
「……何の用、初音?」
 素っ気ない、言葉。
「うん……ちょっと、歩きながらで良いから話があるの……」
「……そう」
 そう応えると楓は、再び歩き出す。呼吸を整え、初音は楓の歩調に併せて、
歩く。
 朝の日差しの中、静かに二人は歩いている。
 路上には楓と初音以外の影は、見えない。二人の頬を、涼しげな風が撫でる。
 湿気を帯びた夏の風、ではない。
 乾いた優しさを感じる秋の風、だった。
「もうすぐ、夏も終わりだね……」
「……そうね」
 互いの制服は、まだ夏服のまま、だ。
 だけど、あと一週間もすれば冬服になる。
 しかし、
 二人の心はまだ、あの夏の日に取り残されたまま、であった。
「…………」
「…………」
 暫しの、沈黙。
「耕一お兄ちゃん……まだ、気にしているのかな……」
 初音が、ぽつり、と呟きを漏らす。
 楓は、応えない。その瞳は前を見つめている。
 だが、その瞳の奥に何を写しているのかは、伺い知る術を初音は持っていな
かった。
「…………楓お姉ちゃん」
「何? 初音……」
「お兄ちゃんの事……助けてあげてくれないかな」
 楓の歩みが、止まる。初音を見つめる。
 真っ直ぐ澄んだ瞳、で。
「…………」
「楓お姉ちゃんなら……お兄ちゃんを……」
「無理――、よ」
 そう言って、再び歩き出す。
「そんな……だって、楓お姉ちゃんは……」
 しかし、次の言葉を初音は言えなかった。
 余りにも、楓の背中が悲しそうに見えた、から。
 苦しんでいる、のだ。
 耕一だけじゃない。
 楓も、苦しんでいる。
 伝わらない自分の、想いに。その気持ちが、初音には痛いほど感じ取れる。
 その後、二人は分かれ道まで一言も話さずに歩いた。
「じゃあ……楓お姉ちゃん、私行くから……」
「……ええ」
 初音は足早に、歩き出す。
「…………初音」
「……何、楓お姉ちゃん?」
 楓の声に初音は、振り向く。

「…………ありがとう」

 楓が、微笑んでいた。
 その微笑みは何か優しく、哀しげ、だった。


『お兄ちゃんの事……助けてあげてくれないかな』
 楓は、初音の言葉を思い出す。
 そんなの、無理だ。
 そう。
 無理に決まっている。
 だって、耕一さんの気持ちは……。
 きゅっ、
 楓の胸が、痛んだ。
 慕情。
 嫉妬。
 困惑。
 あらゆる感情が混ざり、痛みとなっていた。
 それに。
 あの人は、次郎衛門じゃない。
 私は、エディフェルじゃない。
 あの人は、柏木耕一なのだ。
 私は、柏木楓なのだ。
 そんな事は解っている。
 解っているのに……。
 あの日の耕一の姿を、思い出す。
 あの日。
 姉の千鶴の遺体を抱き上げて、帰ってきた耕一。
「…………ごめん」
 ただ、一言。
 そう言って、耕一は泣いていた。
 ごめん。
 ごめん。
 ゴメン。
 ゴメン。
 姉の遺体の側で、譫言の様に言葉を繰り返す、耕一。
 楓は何も、言えなかった。
 そして。
 楓は耕一の心を知ってしまった。
 互いの『エルクゥ』に、よって。
 耕一が千鶴を愛した事。
 その中に自分などは入り込む余地が無いという事、も。
「千鶴姉さん……」
 楓がポツリ、と呟く。
 何故、死んでしまったの?
 心で問いかける。
 ――狡い。
 狡いよ、姉さん。
 死んでしまっては敵わないじゃない。
 耕一の心は、日を追う事に千鶴の存在が大きくなっていく。
 その存在が耕一を苦しめている。
 それが楓には痛いほど、伝わってくる。
 誰より、も。
 でも、それを癒すことは楓には、出来ない。
 好きなのに。こんなに耕一の事が、好きなのに。
 ただ、自分には見ている事しか出来ないのだろうか?
 千鶴の死の時のように。
 その問いの答えを、楓はまだ得ることが出来ないでいる。
 静かに夏の残照が楓の影を、ぽつりと路上に落としていた。

「……耕一、いるの?」
 柏木梓は静かに耕一の部屋の障子を、開いた。
 しかし、其処には誰もいない。
「何処に行ったのよ……」
 そう呟きながら、梓はゆっくりと濡れ縁を歩く。
 きい、
 きい、
 と、床が軋んで鳴く。
 その音は静まり返った屋敷の中で、ヤケに大きく聞こえる。
 楓と初音が出ていった為、だろうか。
 そうではない。
 この屋敷も泣いているのだろう。美しき主がいなくなった事、を。
 軋み音に耳を傾けながら、梓はある部屋の前で足を止める。
 気配が、あった。
 僅かな、気配である。襖の向こうから、匂いがする。
 線香の匂い。
 ここ数日嗅ぎ慣れた匂い、だ。

 こぉんっ、

 庭の何処かで鹿威しの音が、聞こえた。
「…………」
 暫しの無言の後、梓は意を決して襖を開く。
 線香の匂いが、濃くなる。
 目の前に仏壇が見える。其処には位牌が、あった。
 梓達の両親の、位牌。
 叔父の賢治の、位牌。
 ――そして千鶴の位牌、が。
 線香の煙の中。
 仏壇の前に座っている、人影があった。
 耕一、だった。
 黙祷をしている訳ではない。
 ただ、其処に、ぽつりと座っていた。
 視線は目の前の位牌に注がれている。
 生気が感じられなかった。
 まるで、糸が切れた操り人形みたいに見える。
 大気は、ひいやり、と湿っぽい。この部屋だけが別世界の様を呈している。
 耕一は、梓に気づいていない様であった。
 ぽん、と背中を叩けば消えてしまう、様な。
 そんな雰囲気で、あった。
 耕一の視線は、位牌から動かない。
 ――ああ、
 耕一は位牌を見ているのではないのだ。
 梓は感じ取っていた。
 耕一は千鶴を見ているのだ。
 そして、梓も千鶴を見ているのだ。
 堪らず、に。
「…………耕一」
 梓は言葉を漏らした。
 梓の声に耕一が振り向く。
 しかし、梓は次の言葉を紡ぐことは出来ない。
 何を言えば良い、のか。
 何を言えば耕一を救える、のか。
 そんな自分に梓は苛立っていた。
 その時、
 風が、吹いた。
 庭から仏間、へ。
 優しい、微風。
 その風が耕一の背中にぶつかって。

「――――耕一っっ!!」

 耕一の躰が、崩れ落ちた。


     〈3〉

 夢。
 微睡みの、中。
 夢を見る。
 あの夢、ではない。
 何時の頃の夢だろうか。
 思い出せない。
 でも、見たことがある夢。

 俺は誰かを抱き締めている。
 女、だ。
 女を抱き締めている。
 千鶴さんでは、ない。
 知らない女、だ。
 ちがう。
 俺はこの女を知っている。
 何時出会った?
 ……思い出せない。
 名前は?
 ……思い出せない。
 でも。
 俺はこの女を知っていた。
 黒い艶やかな髪が、サラサラと俺の手の中で零れている。
 腕の中の女が、微笑む。
 とても、儚げに。
 女の口元から、血が伝う。
 女の命の炎は今、消えようとしていた。
 死ぬな。
 置いていかないでくれ。
 俺は叫んでいた。
 胸の中に言い様のない感情が、溢れる。
 女への、愛しさ。
 切なさ。
 哀しさ。
 零れ落ちる全てを掻き集めるかの様に俺は、女を抱き締めた。
 女の口が、言葉を紡ぐ。
 しかし、声は聞こえない。
 何を言っているのか。
 それすらも、解らない。
 俺は、ひたすら抱き締める。
 頬に涙が、伝う。
 抱き締めながら、俺は泣いていた。
 そう、

 ――千鶴さんの死んだ時の様、に。

 目が覚める。
「……耕一?」
 耳元から声が、聞こえる。
 俺の両目が焦点を結んで、梓の顔を映しだした。心配そうな梓の、顔。
「梓…………俺、一体?」
「良かった……突然、倒れるんだもの……」
 安堵の溜息を、梓が漏らす。
 俺は自分の部屋の布団に寝かされていた。
 ……そうか……俺、倒れたのか。
 壁に掛けられた時計に視線を、移す。あれから、一時間程度しか経っていな
い。既に昼時近くに、なっていた。
「……ごめんな、梓。心配……かけちまったな……」
 上体を起こしながら、俺は呟く。
「別に良いよ…………、本当に大丈夫?」
「……ああ、ちょっと眩暈がしただけだよ」
 口元に無理矢理笑みの形を作りながら、俺は応える。
 これ以上、梓に心配はかけられなかった。
 くそ。
 情けない。
 俺はこんなに弱くなってしまった、のか?
 胸中で俺は自分を嘲るかのように、笑う。
 心に疼くものが、あった。
 この躰には最強の『鬼』の力が眠っているのに。
 俺は――弱くなってしまった。
 あの日。
 千鶴さんが死んだ時以来、俺は『鬼』の力を出していない。
 否。
 『鬼』の力が出せなくなった、のだ。
 何度か引き出そうと試みたが、まるっきり駄目だった。
 それでいい。
 俺は何時しかそう思っていた。
 こんな『鬼』の力があったから、悲劇は起きたのだ。
 それなら……。
 それなら、こんな『力』など無いほうが良い。
 千鶴さんを。
 愛する女を守れなかった力、なんか。
 無いほうが、良いのだ。

『……耕一さん』

 不意、に。
 俺の耳に声が、届く。
 いや。
 声は耳にではなく、心に届いてくる。
 俺の心、に。
 哀しい声。
 哀しい心。
 それが俺にも伝わってくる。
 誰だ?
 俺は顔を上げる。

「――!!」

 心が凍り付く。
 目の前に女性が立っていた。
 俺が愛した女性。
 殺してしまった女性。
 千鶴さん。
 彼女が俺の目の前に、いた。
 哀しそうな瞳、で。
 何か、言いたげな。
 千鶴さん。
 どうしたの?
 何故そんな顔を、しているの?
 俺を責めているのかい。
 そうだね。
 責められて、当然だ。
 苦い想いが、あった。
 骨の軋む様な、想い。
 鼓動が遠くに響いている。
 闇の中、に。

 ――そして。
 俺の意識が暗黒に、墜ちていった。


 耕一が意識を失って、三日が経った。
 早朝。
 朝の光が満ちるには、まだ時間があった。
 耕一の部屋に小さな人影が座っている。
 楓であった。
 耕一の布団の側で、正座をしている。その顔には疲労の色が、色濃く落ちて
いた。
「……楓」
 楓の後ろで声が聞こえる。振り向くと、其処には梓が立っていた。
「梓姉さん……」
「また、一晩中起きていたの……?」
「…………」
 こくり、と楓が頷く。
「駄目だよ……少しは眠らないと……」
「ごめんなさい…………でも、眠れないの……」
 そう言って、楓は布団の耕一の顔に視線を、戻す。
 耕一は布団の中で規則正しく、呼吸をしていた。
 しかし、その瞳は何も映してはいない。
 果てない、どろり、とした闇だけが蟠っていた。
 息をしているだけの、肉の塊。
 それが今の耕一で、あった。
 原因不明の意識喪失。
 医者は、そう診断した。
 このまま、この状態が続けば危険だと云う事、も。
 下手をすれば、植物人間化も考えられた。
 しかし、その原因は理解っていなかった。
 ――いや、
 梓や楓達には、理解っていた。
 多分、それは…………。
 開け放たれた障子の向こうから、空が白み始める。
 四日目の朝が来た、のだ。
「楓……今日は学校は……?」
「……いかない」
「……そう」
「うん…………」
 梓はゆっくりと、楓を抱き寄せた。
 楓は、ふらり、と梓の胸に顔を埋める。
「…………どうして、こうなっちゃったんだろうな」
「…………」
「…………ねえ、どうすれば良いのかな」
「…………」
「…………ねえ、どうすればあの時みたいになれるのかな」
 みんなで笑い会えた、あの時に。
 あの、夏の日の様に。
 梓の声が震えていた。
 嗚咽。
 梓の唇から、嗚咽が漏れていた。楓の華奢な躰を、梓は抱き締める。
 梓の嗚咽が、躰を震わせる。震えは楓の躰にも伝わる。
 そして、梓の心、も。
 帰りたいよ。
 帰りたいよ。
 あの時、に。
 あの頃、に。
 その時、楓が梓の頬を撫で、
「…………梓姉さん」
 と、言葉を紡ぐ。
「……耕一さんを助ける方法が、一つだけ、あります」
 楓の言葉に、梓は見つめ返す。
 梓の顔を見つめる、楓の顔は。
 ――死すら、厭わない。
 そんな表情をしていた。


     〈4〉

「――耕一さん、耕一さんってば……」
 布団にくるまっていた、俺の耳朶に声が、届く。
 優しい、声。とても優しい、声。
 ゆさゆさ、と白い掌が俺を揺り起こす。
「……う、ううん……」
 俺は寝惚けた眼を開き、布団の中で伸びをする。
「……起きて下さい、耕一さん。もう、朝ですよ」
 俺は、のっそり、と躰を起こす。
 目の前に、艶やかな黒髪の女性がいる。
 千鶴さん、だった。
「……ああ、おはよう、千鶴さん」
 Tシャツの懐に手を入れて、ぼりぼり、と躰を掻きながら俺は応える。
「ふふっ、おはようございます」
 朝の光の中で、千鶴さんの笑顔は、とても眩しく見えた。
 ……やっぱり、綺麗だよなぁ。
 俺は千鶴さんを見ながら、そう思う。
「……どうしたんですか? じっと見て……」
「うん……やっぱり、千鶴さんって美人だなって思って、さ……」
「……えっ」
 俺の言葉に、千鶴さんの頬が桜色に染まる。
 そういう俺の方も、照れていたりするんだが。
「…………もうっ、耕一さんったら」
「はははははは……」
 まだ、暑い夏の朝の日差しの中。
 俺と千鶴さんは、はにかみながら微笑っていた。

「……私が、耕一さんの心の中に這入ります……」
 小さいが、はっきりとした口調で、楓は言った。
「…………心の中に?」
「然う」
 こくん、と梓の問いに楓が、応える。
 陽は既に昇り、耕一の部屋には梓と初音と楓が布団の傍らに座っていた。
 『エルクゥ』の精神感応の力を使って、耕一の心に同調する。
 そして、耕一の心を元の世界へ連れ戻す。
 二人の前でそれが耕一を助ける唯一の方法だと、楓は説明した。
 それが出来るのは、自分だけだ、とも。
 しかし。
「……駄目だよっ、楓お姉ちゃん。そんな事をしたら」
「そうだよ、楓。もし、あんたが失敗すれば……」
 初音と梓は反対した。
 もし、この試みが失敗すれば、楓も只では済まない。
 良くて、精神障害。最悪の場合は、耕一と同じ様になってしまうだろう。
 成功の確率は、五分五分。
 ――いや、正直かなり分が悪い。
 反対するのは当然の事と、言えた。
 だが。
「…………構わないわ」
 と、楓が言う。
 その言葉が、決意の固さを物語っていた。
「もう……、後悔したくないの」
 千鶴の死の時、も。耕一が衰弱していく時、も。
 楓は何も出来なかった。
 だから。
 もう二度と後悔しない為に、楓は決意をした。
 耕一さんだけは、絶対救ってみせる、と。
「…………お姉ちゃん」
 初音は、もう楓を引き止めようとしなかった。
「…………まったく、あんたは妙なところで頑固なんだから」
 がりがり、と短い髪を掻きながら、梓も苦笑気味に応える。
 そして、梓は人差し指を楓に突き付ける。
「……いいかい、必ず帰って来るんだよ」
 梓の顔は心配そうであったが、楓を信じていると物語っていた。
 こくん、
 梓の言葉に楓は頷いて、初音に心配ないと微笑んだ。
 楓はゆるりと、耕一の躰に近付く。
 とくん、
 とくん、
 心臓の音が聞こえた。
 怖くない訳は、無い。
 怖い。
 この躰が、震える程に。
 でも、耕一を失う事がもっと怖い。
 失いたくない。この人だけ、は。
 楓は耕一の掌を、握りしめた。
 それは、耕一が『あの人』だからだろうか?
 かつて、自分を愛してくれたひと。
 自分が愛したひと。
「…………」
(――違う)
 暫時の沈黙の後、楓は否定した。
 それは、自分がこのひとを愛しているから。
 小さな頃から、ずっと見ていたから。
 だから。
 今ならはっきりと、理解る。

 柏木楓は柏木耕一を愛している、と。

「…………耕一さん」
 そう、呟いて。
 楓の意識が、ゆるりと耕一の瞳に溶け込んでいった。


 朝。
 柏木家の居間。
 俺は千鶴さんと少し遅めの朝食をとっていた。
「はい、耕一さん」
「あ、ありがと、千鶴さん」
 千鶴さんの装ってくれた茶碗を受け取る。
 白いご飯。
 湯気を立てている、お味噌汁。
 鮭の切り身に、菠薐草のおひたし。
 典型的な日本の朝食を、俺と千鶴さんは二人で食べていた。
 ――二人?
 俺は妙な違和感を、覚える。
 何か足りない様な気が、した。
 喪失感。
 それを確かに俺は感じていた。
「ねえ、千鶴さん……」
「なんですか?」
「この家って、俺と千鶴さんしかいないんだよね……?」
 俺がそう訊くと、千鶴さんは微笑いながら、

「ええ、私と耕一さんしか居ませんよ」

 と、応えた。
 そうなんだ。
 俺は叔父夫婦と親父が死んで、一人っきりになってしまった従姉妹の千鶴さ
んと暮らしているのだ。
 二人っきり、で。
 でも、なんだろう。何かが足りなかった。
 例えば、俺を怒鳴りつける五月蠅いが、優しい声。
 例えば、俺の横で笑ったり困ったりしながら、甘えてくれる笑顔。
 例えば――、
 俺をただじっと見つめている、澄んだ瞳。
 ――ずきん――
 胸の辺りに、とても甘やかで微かな痛みの様なものが疾る。
 だけど、それはとても暖かい感触があった。
 昔無くした何かを、取り戻すような。
 そんな、気持ちだった。

 真夏の日差しの中に楓は、いた。
「……ここは?」
 周囲を見回す。
 水門が、見える。
 柏木家の近くの山中にある貯水池であった。
 幼い頃、耕一と遊びに行って此処で楓は初めて鬼となった耕一を見たのだ。
 その時の様子を楓は、よく覚えている。
 ゆっくりと近付いてくる、耕一。
 一緒にいた梓と初音は、その姿を見て怯えていた。
 だが、楓は恐れを感じていなかった。寧ろ懐かしさすら、感じていたのだ。
 あの時、からだった。
 楓が不思議な夢を見るようになったのは。
 その夢は年を追う毎に鮮明になっていき、どうしようもない切なさが胸にこ
み上げてくるようになった。
 耕一の顔と姿を見る度に、それは募ってゆく。
 それは過去の記憶の為だと、自分に言い聞かせてきた。
 自分は『柏木楓』なのだ、と。
 そして――今。
「耕一さん……」
 ぽつり、と楓が呟く。
 その時。
 がさり、
 と、後ろの叢から音が聞こえる。
「……あっ、ごめん。驚かしてしまったかな?」
 大きな影が叢から姿を、現す。
 どきん、
 振り向いた楓の心臓が、激しく鼓動を打つ。
 楓の目の前に立っている、青年。穏やかに微笑むその顔は、忘れようがない。
 柏木耕一で、あった。


     〈5〉

「――――そう、思い出の場所、なんだ」
 こくん、
 俺の横に立っている女の子が、頷く。
 散歩がてらに寄った、この貯水池で出会ったのだ。
 とても綺麗な子、だった。
 木目の細かい、肌。
 肩に届く手前でばっさりと切られた、黒髪。
 華奢な、躰。
 絵に描いたような、美少女だった。
 名前は――そういや、聞いていなかったな。
 俺は女の子の名前を聞こうと、顔を向ける。
 うっ、
 俺は思わず呻きを漏らしそうになるが、何とか口に出る手前で飲み込んだ。
 振り向いた俺の顔を、隣の女の子がじっと見ていたからだ。
 綺麗な瞳、だった。真っ直ぐで、とても澄んでいる。
 何処かで見たような、瞳。
 ずきん、
 何故だか俺の胸が、痛んだ。
 また、だ。
 今朝も感じた痛みを再び、感じる。
 俺の心を見透かされている様な視線。
 見透かされる?
 何を?
 俺は困惑する。
 その時。
「…………待っているんです」
 目の前の女の子が、そう言った。
 待っている。小さく、囁くような声であったが確かに、そう言った。
「……誰を待っているんだい?」
 俺が、訊く。
「…………」
「いや、答えたくなかったら、別に良いんだ……」
 慌てて、取り繕う。
「……大切なひとを、待っているんです……」
 ぽそり、と女の子が言う。

 ざあっ、

 風が、吹いた。
 木々が、ざわめく。貯水池の水面が、小さい波をたてる。
 女の子の髪が、風に靡く。
 俺の中にも、風が吹いた。
 脳裏に映る断片的な、映像。
 白く輝く月。
 不思議な衣装を着た、少女。
 炎。
 命の炎。
 見たことの無いような、怪物。
 千鶴さんの姿。
 千鶴さんの骸。
 血。
 少女の、血。
 紅い血。
 千鶴さんの血。
 何だ?
 何だ、この映像は?
 俺は頭を押さえる。
 その場に、蹲る。
「…………大丈夫ですか?」
 女の子が俺の顔を心配そうに、覗き込む。
 ……風が、止まった。
「ああ……大丈夫だよ……」
 俺はなんとか、立ち上がる。
 陽光が遮られる。
 空を見上げる。
 黒い雲が、さっきまで澄み切っていた青空を覆い尽くそうとしていた。
 こりゃ、一雨降るかもな。俺は、そう思った。
「雨が降りそうだね……君も早く帰った方が、いい……」
 女の子の方へ顔を向けて、俺は言った。
 女の子は俺の方を見て。
 こくん、
 と、頷く。
「…………じゃあ」
 俺はそう言って、背を向けて歩き出した。
 暫く歩いて。
 ふと、俺は貯水池の方を、振り返る。
 女の子はまだ、其処に立っていた。
 その横顔と瞳は、とても悲しい影を宿していた。
 俺は後ろ髪を引かれる様な気持ちで、再び歩き出した。

 十分後。
 雨が、降りはじめた。
 最初は小さな、雨粒。
 次第に雨粒が大きくなり、雨は夏の青葉を小さく叩く。
 空はどろり、とした粘液質な雨雲が覆っている。
 雨足は強くなってきている。
 まるで、泣いている様な雨であった。
 誰が泣いている、のだろうか?
 それは、まだ解らない。

「……本格的に降り出したな」
 俺は雨に濡れた頭をタオルで拭きながら、呟く。
 ぶるっ、
 と、躰が震える。
 夏だというのに、とても冷たい雨だった。躰はすっかり冷え切っている。
 窓の外を見ると、まだ雨は降り続いているみたいだった。
 ぱたっ、
 ぱたっ、
 ぱたっ、
 雨粒が硝子戸を叩く音が、聞こえる。

『…………待っているんです』

 不意、に。
 貯水池で会った、あの子の言葉を思い出す。
 待っている。
 大切なひとを、待っている。
 その言葉が俺の何処かで引っ掛かっていた。
 何故だろう。大事な何かを忘れてきたような感覚が、ある。
 既に知っているものを、どうしても思い出せないでいるもどかしさ。その答
えが喉元でつかえている様な感覚だった。
 とても暖かくて哀切感を伴った感覚、だった。
 再び、視線を窓の外に向ける。
 雨はまだ降っていた。
 また、雨足が強くなったみたいだった。
「耕一さん」
 声が聞こえる。
 千鶴さん、だった。
「外は寒かったでしょう? ……暖かいお茶を入れたんですけど……」
「……ああ、ありがとう千鶴さん」
 暖かいマグカップを千鶴さんから受け取りながら、俺は応える。
 お茶を喉に流し込むと、暖かさが胃の中に染み込んだ。
 もう一口、お茶を飲む。
 …………そう言えば。
 あの子、無事に帰れただろうか?
 あの後ろ姿……。
 まさか、この雨の中もあの子はずっと……。
 はは。
 まさか、ね……。
 …………。
 ………………
 ……………………。
 ……………………いや。
 あの子はこの雨の中も、彼処にいる。
 雨に打たれて。独りぼっち、で。
 待っている、のだ。
 何故だか解らないが、ソレだけは、はっきりと確信できた。
 俺は玄関に向かって、走り出していた。
「耕一さんっ、どうしたんですか?」
「……千鶴さんっ、ご免、俺ちょっと出掛けてきます」
 傘立てから傘を取り上げて、俺は雨の中を飛び出して行った。
 一目散、に。

 雨が降る。
 雨が降る。
 雨は蕭々と降っている。

 雨の中を俺は走っていた。
 貯水池へ続く、山林道。
 足が泥濘に取られて、何度も転びそうになる。
 風が雨を横に降らしていた。
 豪雨、だった。
 顔に当たる雨はとても冷たくて、針のように頬を叩き続ける。
「うわっっ!」
 ずるっ、
 と、足下の地面が滑る。
 なんとかバランスを取ろうとしたが、冷えてしまった躰は思う様に動かずに
俺は不様に倒れる。
 そして、そのまま俺は山道を転がりながら、泥の中に顔を突っ込む。
 べっ、
 べっ、
 口の中の泥を、俺は唾と一緒に吐き出す。
 口の中がザリザリして、気持ち悪い。
 気が付くと手に持っていた傘が、無くなっていた。
「……くそっ」
 俺は顔の泥を拭って、再び山道を走り始める。
 普段なら、十五分程度の距離の筈なのに、とても遠い道のりを歩いているみ
たいだ。
 風が俺を押し返そうとする。
 あの子に会うな、と言うように。
 俺は構わず、走り続ける。
 どうしても、あの子に会わなければ。
 その気持ちが俺を突き動かしていた。
 脅迫感では、ない。
 義務感でも、ない。
 切なさ。
 愛しさ。
 それが俺の足を動かしていた。
 傘を無くした俺の躰を雨は容赦なく、濡らしていく。
 木々の若葉に当たる雨が弾けて、山林内に小さな霧が発生していた。
 俺は走り続ける。
 走る。
 走る。
 貯水池へ向けて。
 ――――そして。
 俺は山道を抜けて、貯水池に着いた。

 雨の中。
 柏木楓は其処に、ぽつん、と立っていた。


     〈6〉

 柏木楓は其処に立っていた。
 柏木耕一と別れたときの、まま。
 躰はずぶ濡れ、だった。
 服の端から雨の滴が伝い、地面に落ちる。
 楓は待っていた。
 ずっと。
 ずっと。
 ずっと。
 楓の目の前に人影が、現れた。
 視線をあげる。
 柏木耕一、だった。
 耕一もずぶ濡れ、だった。
 泥だらけに、汚れていた。
 その瞳は楓を見ている。
 雨が二人をただ、濡らす。
 冷たい雨、が。
 二人とも何も言わない。
 楓の瞳は耕一を映していた。
 耕一の瞳は楓を映していた。
「…………あ…………」
 耕一が言葉を紡ごうした、瞬間。

 ――ぱしんっっ、

 耕一の頬に痺れるような痛みが、疾った。
 雨粒が、弾ける。
 楓の右手が、耕一の頬を叩いていた。
 突然の事だった。
 哀しい痛み、だった。
 苦しい痛み、だった。
 叩かれた左頬から、その痛みが全身に拡がっていくのを感じた。
 腕、に。
 足、に。
 瞳、に。
 唇、に。
 心、に。
 左頬を押さえながら、耕一は楓へ視線を戻す。
 楓は泣いて、いた。
 大きなその瞳から、大粒の涙が溢れていた。
 涙は顔に降り注いでいる雨と混じり合って、顎から零れていく。
 涙を流しながらも、楓の瞳はじっと耕一を見つめていた。
 耕一は何も言えなかった。
 その時、
 耕一の瞳から、熱いモノが出てきた。
「えっ…………」
 耕一は驚いて、指先を眼に近づける。
 熱いモノが、指先に触れる。
 透明な玻璃色の粒が、あった。
 涙。
 耕一は涙を、流していた。
「……………あなたは」
 楓が、言う。
「あなたは……どうして……」
「……………」
 耕一は、応えない。
「…………私の気持ち…………知らない、くせに…………」
 雨が更に強くなってくる。
 吐く息が、白くなっているのが見える。
 楓が、俯く。
 耕一は腕を伸ばす。
 楓に向かって。
 あと、数センチで楓の華奢な躰に手が届こうとする。
 その手を――、
「触らないでっっ!!」
 楓が、振りほどく。
 悲痛な叫び、と共に。
 びくり、と耕一が硬直する。
 そして、
 楓は雨の中、耕一に背を向けて走り出した。

 走る。
 走っている。
 俺は、走っている。
 追いかけている。
 あの子、を。
 あの子の背中を、追いかけている。
 雨の中を。
 冷たい雨が、全身を濡らしていた。
 躰がとても重たく感じる。
 鉛を着ているみたいに。
 また頭の中に奇妙な映像が、フラッシュバックする。
 気の強そうな、ショートカットの女の子。
 貯水池に落ちて泣いている姿。
 いつも、優しく穏やかに微笑んでいる女の子。
 花火をしながら、寂しそうにしている横顔。
 不思議な衣装を着た、少女。
 炎と血の匂いが立ち込める中にいる、その姿。
 奇妙な夢と、恐ろしい姿をした怪物。
 何が何だか解らないモノばかり、だ。
 くっ、
 頭が割れそうに、痛い。
 まだ、俺は走り続けている。
 気が付くと水門の橋の所まで来ていた。
 くそっ、
 俺は頭を振って、雑念を振り払った。
 今はあの子を捕まえなくては。
 そう、考えた。
 考えるのは、それからでも遅くはない。
 走る速度を更に上げる。
 あの子の背中が、どんどん近付いてくる。
 手を、伸ばす。
 つかまえる。
 逃げようと、暴れる。
 暴れるその子を……、
「……………っ?!」
 抱き寄せた。
 全ての感情が混ざり合って。
 頭の中で、スパークする。
 そして、一言。

「…………………楓っ」

 と、云った。


 時が、止まった。
 楓は耕一の腕の中にいた。
 耕一は楓を腕の中に抱き締めていた。
 楓の耳朶に耕一の言葉が、届いた。
 その言葉を聞いた、時。
 ぷつんっ、
 と、楓の中の張り詰めていた何かが、切れる様な音がした。
 ソレはとても儚いものだった。
 例えるならば、硝子の糸みたいなものだ。
 耕一が自分の名前を呼んでくれた、のだ。
 千鶴では、なく。
 エディフェルでも、なく。
 『楓ちゃん』でも、なかった。
 ただ、一言。
 …………楓、と。
 楓の躰から抵抗が、消えた。
 ふらり、と倒れそうになる。
 耕一の力強い腕が、抱き留める。
 しっかり、と。
「…………あっ」
 楓は顔を、上げる。
 目の前には耕一の顔があった。
 冷たい雨の中の顔は相変わらず、泥だらけだった。
 だが、その顔は泣いていなかった。
 優しく。
 暖かい光を瞳に、宿して。

「やっと、――――つかまえた」

 微笑っていた。
 その時。
 楓の視界が、傾いた。
 ぐらり、
 雨の所為で貯水池の橋から足が滑る。
 強い雨風が、二人を吹き飛ばそうとする。
 重力が楓と耕一の躰を引きずり落とす。
 耕一は楓を護るように、抱き締めて。
 楓は耕一から離れないように、抱き締めて。
 二人は大きな水飛沫を上げて、貯水池に墜ちた。

 俺の口から、息が吐き出される。
 ごぼっっ、
 大きな泡となって、水中の俺の視界に現れる。
 冷たい水の中。
 俺は何とか水面に上がろうと、藻掻く。
 ごぼっ、
 ごぼっっ、
 動く度に気泡が吐き出される。
 貯水池の中は、まるで竜巻の中にいるかの様に水流が渦を捲いていた。
 上に。
 下に。
 右から。
 左からも。
 俺の躰はまるで人形の如く、渦に奔流された。
 苦しかった。
 寒かった。
 ごぼおっっ、
 また、肺の中の空気が吐き出される。
 どうなるんだ、俺?
 死ぬのか?このまま。
 絶望感が、俺を襲う。
 そう言えば、小さな頃もこんな事があった。
 そんな考えが、頭をよぎる。
 水の冷たさが、体温を奪っていく。
 肺の中の酸素が少なくなり、意識が混濁する。
 俺が死を覚悟したとき、
 ぎゅっ、
 と、俺の躰を掴む力があった。
 同時に。
『……耕一さん』
 声が届いた。
 俺の心、に。
『…………耕一さん』
『…………耕一さん』
『…………耕一さん』
 何度も、伝わってくる。
 その声は徐々に弱々しくなってくる。
(――楓ちゃんっ!!)
 俺は叫んでいた。
 嫌だ。
 嫌だ。
 イヤダ。
 イヤダ。
 もう、誰も失いたくなかった。
 千鶴さん。
 エディフェル。
 もう、あんな思いをしたくなかった。
 俺は最後の一滴まで力を振り絞ろうとする。
 狂おしいまでに、藻掻いた。
 ――そして、

 ……どくん、
 ……どくんっ、
 …………どくんっっ!!

 俺の中から『あの力』が溢れだしてきた。
 一度は、無くした『力』。
 エルクゥ。
 『鬼』の力、が。 
 俺の中には『鬼』が、いる。
 千鶴さんを救う事が出来なかった、忌まわしい『鬼』が。
 でも。
 今なら救う事が出来るのだ。
 それを、今、解放させる。
 俺の為、に。
 そして、この腕の中にいる。
 かけがえのないもの、の為に。
 躰が、動く。水面に向かって。

 初音ちゃん。
 君の優しい気持ち、伝わったよ。

 梓。
 戻ってきたら謝るから、もう泣くなよ。

 楓ちゃん。
 ありがとう、全て理解ったよ。
 君の心も――そして、想いも。
 戻ったら話したい事が、山程あるんだ。

 俺が楓ちゃんを抱えて、水面を突き破った時。
 俺と楓ちゃんは再び元の世界に、戻っていた。


     〈7〉

 楓は自分の部屋のベッドで、目を覚ました。
「……気がついたかい?」
 優しい声が、聞こえた。
 躰を横たえたまま、楓は声の方向へ顔を向ける。
 楓の眠るベッドの横に、耕一が座っていた。
「…………耕一さん」
 そう言うと、楓は布団の中から腕を出して、伸ばそうとする。
 その手を耕一の大きな掌が、両手で包み込む。
 暖かい掌、だった。
「良かった…………無事で」
 耕一はそう言って、楓の掌に頬を寄せた。
 掌の暖かさで、楓は耕一の存在をしっかりと確認していた。
 無事に帰ってきたのだ、と。
「…………耕一さん、私」
「…………楓ちゃん」
 楓の言葉を、耕一の言葉が優しく遮って重ねる。
「……話したいことがあるんだ」
 耕一のその言葉に楓は頷いて、応えた。

 俺は楓ちゃんに、全て話した。
 隠し事せず、に。
 過去の記憶の事、を。
 次郎衛門。
 エルクゥ。
 鬼。
 リズエル。
 アズエル。
 リネット。
 ダリエリ。
 ――それから、エディフェル。
 全て、思い出した事、を。
 ぽつり、ぽつり、とまるでジグソーパズルの破片を一つ一つ組み上げていく
ように話す。俺の話を楓ちゃんはただ、黙って聞いていた。
 俺の言葉を、自分の中に刻み込むみたいに。
 ゆうに一時間掛けて、俺は全てを話し終わった。
 話し終わって大きな吐息を一つ、ついた。
 暫しの、沈黙。
「…………俺は」
 次の言葉を、紡ごうとした時。
 俺の胸の中に暖かい、感触があった。
 視線を落とす。
 俺の胸の中に楓ちゃんが、いた。
 体重を俺に向けて、寄り掛からせる。楓ちゃんの重さが俺に伝わる。
 想いの重さ、を。
「…………解っていました」
 楓ちゃんの、言葉。
 それだけで俺には、理解できた。
 過去の記憶で混乱している、俺の心。
 エディフェルへの、慕情。
 千鶴さんを失った、自分の気持ち。
 千鶴さんと愛しあったこと。
 全て、楓ちゃんは知っているのだ。
 俺の腕が、楓ちゃんの背中に回る。
「私は替わりでも…………構いません……」
 と、楓ちゃんが言う。
 千鶴さんの、替わり。
 エディフェルの、替わり。
 それでも、構わないと言っているのだ。
 俺は、一つ考え違いをしていた。
 楓ちゃんは全て知っている、と。
 それは違っていた。楓ちゃんは一つだけ、解っていなかった。
 俺のはっきりとした、本当の気持ちを。
「……君は、替わりなんかじゃ……ないよ」
 その気持ちは、揺るぎ無い真実となって此処に、ある。
 楓ちゃんの躰を、一層強く抱き締めて。

「――――君を、愛している」

 迷いも無く、言った。


 私は誰を愛していたの?
 私は誰を愛しているの?
 楓の中にあった、問い。
 その答えが、今、此処にあった。
 楓が顔を上げる。
 耕一は楓の瞳を、見つめている。
 まっすぐ、に。
 その瞳は、とても優しくて、とても綺麗だった。
 どちらからともなく、二人の顔が近付き。
「…………んっ」
 接吻。
 二人の体温が、上昇する。
 互いの糸が絡み合う。
 もう、二度とほどけない様に。
 唇が離れて、吐息を付く。
 耕一の瞳が、問いかけた。
 楓は頬を紅潮させながら、俯いた。
 やがて、こくり、と頷く。
 耕一が楓を抱き寄せる。そして、何か言おうとする唇を優しく、塞いだ。
 二人には言葉は、要らなかった。
 衣擦れの音がする。
 そして、耕一は優しく楓をベッドに横たえた。
 躰からは暖かく甘い香りが、した。

 夢を見た。
 其処にはエディフェルがいた。
 次郎衛門がいた。
 そして、千鶴さんがいた。
 みんな、微笑っていた。
「これからは、お前達が幸せになる番だぞ」
 次郎衛門が、そう言う。
「私達の願いは叶ったわ、ありがとう……」
 エディフェルがそう言って、次郎衛門の胸に寄り掛かる。
 とても、幸せそうに。
 ――そして、
「……耕一さん」
 千鶴さんが、俺を見る。
 千鶴さん。
 俺、これからも生きていくよ。
 千鶴さんに出会った頃の記憶、も。
 千鶴さんを見殺しにしてしまった記憶、も。
 千鶴さんを愛した記憶、も。
 全て、自分の中に受け入れて、生きていくよ。
 だって、どの記憶も今の俺を作り出したものなのだから。
 だから、今の俺は楓ちゃんを愛することが出来たのだから。
 楽しかったことも。
 哀しかったことも。
 嬉しかったことも。
 一人で抱えていくには、大変かも知れない。
 でも、大丈夫。二人でいけばいいんだ。
 二人でなら、哀しいことなら半分で、嬉しいことは二倍になる。
 だから、俺はこれからも生きていくよ。
 そして、今なら言えるよ。

『ありがとう――大好きだよ、千鶴さん』

 千鶴さんはとても嬉しそうに微笑っていた。
 ゆっくりと、千鶴さんの腕が伸びる。
 その掌は、優しく俺の頭を撫でてくれた。
 初めて夏の日に出会った、あの頃。
 その時の微笑みを、千鶴さんは浮かべていた。
「ありがとう……耕ちゃん……」
 そう言った千鶴さんの微笑みは、とても嬉しそうで、とても眩しかった。
 俺も、瞼に涙が浮かんだ。
 でもそれは、決して哀しい涙では無かった。

 朝。
 目が覚めたとき、俺の頬に涙があった。
 視線を横に移すと、俺の腕枕で安らかな寝息をたてている楓ちゃんがいた。
 空いている掌で、ごしごしと涙を拭く。
 窓からは朝焼けの雲が、秋風に流されていた。
 俺は眠っている楓ちゃんを起こさないように、そっ、と近付いて。
 その唇に触れるだけの、口付けをする。
 そして、朝日がこの部屋に射し込んできた時、に。

 俺は、夏の日に別れを告げた。


     〈終章〉

「おーい、耕一。もう準備はいいのか?」
 柏木梓は、耕一の部屋を覗き込む。
 しかし、其処には誰も居なかった。
「何処に行ったんだ〜っ、あいつわ〜っっ!」
 こめかみに血管を浮き上がらせながら、梓は廊下を、どすどすと歩き出す。
 あの事件から一ヶ月が過ぎようとしている。
 既に夏は過ぎ、木々が紅く色付く秋になっていた。
 濡れ縁の廊下から、涼しげな秋の風が吹き込んでくる。
 その風が、梓の伸びた栗色の髪を揺らしていた。
 あれから梓は、髪を伸ばし始めた。今年の冬辺りには、髪は肩まで伸びるだ
ろう。
『梓、あなたは可愛いんだから、髪を伸ばしてみたら?』
 昔、姉が良く呟いていた言葉を思い出す。
 その姉は、もういない。
「……あれ?梓お姉ちゃん、どうしたの?」
 床を踏み鳴らす音に気が付いたのか、居間から柏木初音が顔を出す。
「あっ、初音。耕一のバカ、何処に行ったか知らない?」
「えっ? 耕一お兄ちゃんなら、楓お姉ちゃんと裏山に行ったよ」
「なにぃ〜っ、アイツ今日東京に帰るんだろう?汽車の時間に間に合わないよ、
まったくマイペースなヤツだよな……」
「……そうだね」
 くすくす、と初音は梓の呆れ顔を見ながら、微笑う。
 梓はその時、初音の視線が少し高くなったのに気付く。
 今までは自分の肩より下だった身長が、今はその肩の線を越えている。
 ――そうか、
 梓は、気が付いた。
 自分達の時が動き出した事、に。
 あの夏の日から止まったと思われていた、自分達の時間。
 今もこの胸に姉を失った哀しみは、ある。
 でも、それは少しずつ思い出になってきているのだ、と。
 梓の髪が伸びていくように。初音の身長が伸びていくように。
 時は流れていく、のだ。
「…………これで良いんだよね、千鶴姉」
 誰にも聞こえない位の小さな声で、梓は廊下から見える秋空に呟く。
 その言葉に応えるように、秋風が梓の頬を撫でていた。

「はい、耕一さん」
 と、言って楓ちゃんが俺の目の前におにぎりを差し出す。
「おっ、ありがと楓ちゃん」
 俺は楓ちゃんからおにぎりを受け取って、口の中に頬張った。
 もぐもぐ、と口を動かしていくと中に入っている塩鮭の味がした。
「……どうですか?」
「うんっ、美味いよ。……八十点ってトコかな」
「……よかった」
 そう言って、楓ちゃんもおにぎりを口に運ぶ。
 俺と楓ちゃんは裏山に来ていた。此処から、隆山市が一望できる。最近、俺
と楓ちゃんが一緒に見つけた場所だ。
 今日が俺が隆山に居られる最後の日、なので一緒に来たのだ。
 あの日以来、俺の中の『次郎衛門』の記憶は日を追う毎に希薄なってきてい
た。楓ちゃんの中の『エディフェル』も、多分同様だろう。
 もう、それは『記憶』ではなく――『想い出』になろうとしている。
 この一ヶ月間、俺は東京に帰らずに楓ちゃんと一緒に過ごした。
 勿論、講義の代返やノートとかは同級生の由美子さんに頼んである所は、ぬ
かりない。
 一ヶ月過ごして、俺は本当の楓ちゃんの色々な姿を知ることが出来た。
 日本茶が大好きなところ。
 とても、頭がいいところ。
 俺に対して、甘えん坊なところ。
 俺がからかうと、直ぐに真っ赤になるところ。
 ちょっと、やきもち焼きなところ。
 料理がちょっと苦手で、梓から今教えて貰っているところ。
 その為に、指に絆創膏が絶えないところ。
 そして、何より俺のことを好きでいてくれるところ。
 日を追う毎に、俺も楓ちゃんの事が好きになっていく。

 『エディフェル』ではない、本当の楓ちゃん、を。

「耕一さん……汽車の時間、大丈夫ですか?」
「ははっ、大丈夫だよ……まだ時間が……」
 俺は左腕の腕時計を見る。時間は二時を過ぎていた。
「あれ? もう、こんな時間か」
 まったく、楽しい時間というのは経つのが早い。
「……帰りましょうか」
「うん、そうだね」
 俺と楓ちゃんは肩を並べて、山道を降りはじめる。
 山の木々は紅く色付いて、木の葉を風に踊らせる。
 かさかさ、と落ち葉を踏みながら、歩いていく。
 今は、秋。
 あの夏は既に過ぎ去って、俺の『思い出』だけになっていた。
 やがて秋は冬を呼んで、そして春を招くだろう。
「…………耕一さん」
 楓ちゃんが、呼ぶ。
「んっ? なんだい……?」
 足を止めて、楓ちゃんを見る。
 しかし、楓ちゃんは俺の方を見ずにただ、俯いていた。
 真っ赤になって、もじもじとしている。
「どうしたんだい?」
 そんな楓ちゃんの姿を愛おしく思いながら、俺は微笑んだ。
 やがて、意を決したかの様に楓ちゃんは俺の耳元にある言葉を囁いた。
 その時。

 ――ざあっ、

 風が吹いた。
 地表に落ちた木の葉が、風で巻き上がってダンスを踊る。
 楓ちゃんが囁いた言葉を理解するのに、俺は少し時間が掛かった。
「…………本当に?」
「…………はい」
 消え入りそうな楓ちゃんの返事が、はっきりと聞こえた。
「……私、女の子が欲しいです」
 楓ちゃんはそう言って、小さな命が宿ったお腹に手を触れた。
「…………うん」
 と、俺が応える。
「……ちょっと早いけど、名前も決めているんです」
 あの夏が、再び戻ってくる感じがした。
 あの夏の日に失したものが還ってくる、感じがした。
 ――そうか、
 還ってくるんだ。
 時は流れて、季節は秋から冬へ、そして春から――夏へ。

 還ってくるんだね。

 俺は今はいないあの人に、言った。
 再び、風が吹いた。
 俺は楓ちゃんを強く抱き締めた。
 その躰に宿っている小さな命と共、に。
 強く。
 強く。
 腕時計を見る。
 汽車の時間までは、まだ余裕がある。
 時間の許すまで俺は楓ちゃんを抱き締めていようと思った。
 そして、
 その日が早く来ることを祈りながら、俺は腕時計の日付を一日早く進めた。

 時は流れる。
 時は流れて、決して戻らない。
 けど、季節は再び巡る。
 秋から冬へ。
 冬から春へ。
 そして、春から夏へ。
 再び夏がやって来る。
 待ち望んだ夏が――――。

                               〈了〉

1998.7.20 UP

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