風が運んだ誕生日


「千鶴〜、ちょっと寄り道しない?」
「あっ、ごめ〜ん。今日は用事があるの。……じゃあねっ」
 放課後の帰り道。
 友達の誘いを振り切って、千鶴と呼ばれた少女が走り出す。
 柏木千鶴。
 それが少女の名前だった。
 長く伸ばした黒髪を風に靡かせながら走るその姿に、すれ違う男子生徒達が
振り返る。それは千鶴のボンヤリとした風貌に隠れた美貌の所為、であろう。
 その時。
 不意に足下に小さな木枯らしが、吹いて、
「きゃっ……」
 制服のスカートのラインを乱す。
 風で持ち上がろうとするスカートを慌てて、押さえつけ。
 その弾みで、足が縺れて、
「はわわわわわわわっっ!!」
 千鶴は数歩、蹈鞴を踏む。
 そして。
 ――ごんっ!!
 数メートル離れた生徒の耳にも届く位の、大きな音が響いたのであった。

「ふえええええ……瘤になっているよぉ」
 自分の額を何度もさすりながら、千鶴は涙目になっていた。
 何度も、赤く擦り剥けた額に掌を翳しながら、帰り道を歩いている。
 十数分前の見事なまでの顔面スライディングの結果である。
 あれほど派手に転んだのに、怪我らしいものは額の擦り傷だけだった。
「暫くは前髪で隠しとこ……」
 そう言いながら、くすん、と鼻を鳴らして千鶴は坂道を上り出す。
 この坂を上った住宅街の一角に、千鶴の家があった。
 純和風の大きな屋敷である。
 正門の勝手口から入り、手入れされた庭を横目に玄関の引き戸を開ける。
「ただいま」
 と、言って千鶴は入った。
 返事は無かった。
 三和土で靴を脱いで、千鶴はスリッパをぱたぱた、と鳴らしながら廊下を歩
く。
「お母さん?」
 居間の障子を開け、千鶴は覗き込む。其処には誰も居ない。
 買い物にでも出たのかな?、と考えながら千鶴は自分の部屋へと向かう。
 四つ並んだ扉の一番奥の部屋。
 其処が千鶴の部屋だった。
 部屋に入って、千鶴は制服からゆったりとした室内着に着替える。
「あっ、そうだ……今日は誕生日、だっけ」
 ふと気が付いた様に、千鶴は自分の机の上から二番目の引き出しを開ける。
 小さなラッピングされた箱があった。
 中身は小さなブローチだった。二日前に千鶴が見つけて、この日の為に買っ
ていたのだ。
 その時。
「……ただいま」
 からから、と引き戸が開けられる音がして、落ち着いた感じの声が響く。
 その声は千鶴の母親のものであった。
 千鶴はその声を聞いて、一度手の中の箱を見つめると悪戯を思いついた子供
の様な微笑みを浮かべる。
 ぱたぱたぱた……。
 スリッパを慌ただしく鳴らしながら、玄関へ向かって歩き出す。
 玄関には、一人の女性が立っていた。白いブラウスに柿色のスカートを着て
おり、右手には買い物袋が下がっている。
「お帰りなさい、お母さん」
「……あら、千鶴。今日は早いのね」
「えっ? うっ、うん、今日は部活も休みだし……」
 そう話しながら、千鶴の両腕は後ろに回ったままだ。
 三和土から上がった、母はふと千鶴の額に掌をあてる。
「あら……怪我をしたの?」
 落ち着いていながら、少し心配そうな声。
「……あっ、あははは、ちょっと転んじゃって……」
 照れくさそうに千鶴の頬が、赤くなる。
 ……くす。
 と、千鶴の笑みを受けるように、母親も口元に笑みを浮かべる。
 千鶴はその笑顔の前に、後ろ手に隠していた箱を出す。
「…………お誕生日おめでとう、お母さん」
 千鶴がそう言う。
 最初はきょとん、としていた千鶴の母親は数秒後に嬉しそうにその箱を受け
取った。
「ありがとう…………千鶴」
 十一月十五日。
 今日は、柏木千鶴の母――柏木楓の誕生日であった。

 柏木家に起こったあの悲劇から既に十五年の月日が流れていた。
 当時、柏木家当主であり鶴来屋の会長であった、柏木千鶴はその悲劇の最後
の犠牲者として愛する男である柏木耕一の腕の中で息を引き取った。
 柏木耕一は愛した女性の死に苦悩した。
 しかし、耕一は側で支えてくれた一人の女性に救われる。
 柏木楓。
 千鶴の妹で柏木家の三女。
 耕一はそんな楓を愛するようになって、この一年後、楓は子供を出産する。
 女の子だった。
 耕一も楓も自然とその子の名前を『千鶴』と決めていた。
 ずっと昔から約束されていた様に。
 千鶴が生まれたとき、柏木の誰もが思っていた。

 今度こそ、幸せになれますように、と。

「……こんばんわ」
「おーすっっ! 千鶴いるか〜っっ!!」
 千鶴と楓が夕食の支度をしていると、玄関から二つの声が聞こえた。
「あっ、初音と梓姉さんが来たみたいね」
 煮物の味見をしながら、楓は嬉しそうに微笑んだ。
「あっ、私が出るよ。お母さんはお鍋見てて」
 そう言うが早いか、千鶴はエプロンの裾で手を拭きながら玄関へ歩き出す。
 其処には二人の女性がいた。
 一人は背が高く、バリバリのキャリアウーマンみたいな女性。
 柏木梓、である。
 あと一人は、千鶴より年上の筈なのに童顔が抜けきれないような可愛らしい
女性。
 柏木初音、であった。
「いらっしゃい、梓おばさん」
 ――ぴしり。
 千鶴の無邪気な言葉に、梓の笑顔がひきつる。
「だ・れ・が・『おばさん』だって〜っっ!!」
 千鶴の頭を捕まえて、梓が拳骨でぎりぎり、と締め上げる。 
「いたたたたたたたたっっ!! ご、ごめんなさいっ! 梓『お姉さん』」
 梓にヘッドロックを掛けられながら藻掻き苦しんでいる千鶴の姿を見て、初
音はしょうがないなぁ、と苦笑を漏らしていた。

 小さな位牌の前で、梓と初音は静かに黙祷をしていた。
 その後ろに千鶴がいる。
「…………ねぇ、梓姉さん」
 千鶴が訊く。
「んっ? なんだい、千鶴」
「……その位牌の……昔、死んだ『千鶴』さんってどんな人だったの?」
 静かに千鶴が指差した位牌を見つめながら、梓は寂しそうに口を開く。
「そうだね……、いつもボーッとしていて、天然ボケで貧乳、料理の腕は殺人
的だし、ニコニコ笑いながら平気で人をいぢめる偽善者で……」
 梓の言葉を聞きながら、千鶴の頭にジト汗が浮かぶ。
「でもね……。綺麗で……優しくて……いつも何か悩んでいて……そのくせあ
たし達の前ではそんな素振りなんか見せないで……」
「…………」
「あたし達なんかじゃあ、太刀打ち出来ないぐらい、強いひとだったよ」
「……そうだね」
 初音も応える様に、頷く。
「……素敵なひと、だったんだね」
「そう、ね」
「……私も『千鶴』さんみたいになれるかな?」
 えっ?、という表情をしながら梓と初音は顔を向ける。
 だが、直ぐにその顔はほころぶ。
「なーに、言ってんだよこの子わ〜っ!」
「きゃっ!」
 梓に優しく抱きすくめられた千鶴は驚いたように、目をパチクリさせる。
「……千鶴ちゃん、貴女は私達の大事な姪よ。……断じて『千鶴姉さん』じゃ
ないのよ……」
 初音が梓に抱きすくめられた千鶴の顔を覗き込むように、微笑む。
「そうだぞっ、千鶴。……まぁ、でもアンタが千鶴姉にそっくりなところと言
えば」
 じっ、と梓も優しく腕の中の千鶴を見つめる。
「…………その発育不良の胸と天然ボケのところ、ぐらいだよな〜」
 にかっ、と意地悪そうに笑う、梓。
「ああああああ〜っっ! 非道い〜っっ!! 私だってこれからもっと大きく
なるんだからねっっ!! お・ば・さ・んっっ!!」
「なっ……! また、おばさんって言ったな〜っっ!!」
「だって、そうじゃないの〜っ! ねぇ、お〜ば〜さ〜ん〜っっ!!」
 何時の間にやら、周囲の温度がどんどん下がっていったりして。
「あっ……あの、梓姉さんも千鶴ちゃんも、落ち着いて……」
 そんな初音の宥める言葉も、もう二人の耳には届いていない。
「くぅ〜っっ!! そーゆー陰険な性格も千鶴姉にそっくりになりやがって
〜っっ!!」
「へへ〜んっ、だ。年増のひがみはみっともないわよ〜っっ!!」
「黙れっ! この寸胴貧乳娘っ! 毎日牛乳でも飲んだら?」
「そんな牛胸だと、そろそろ垂れるんじゃあないのっ? お・ば・さ・んっ!」
 ――ぷっちんっ、
 なにか、ヤバイものがキレる音が二人の内部から聞こえる。
 そんな二人を見ながら、初音はただ嘆きの溜息を吐き出すしか無いのであっ
た。

 料理を皿に盛り分けながら、楓は台所の向こうの部屋で姉の梓と娘の千鶴の
言い争いを苦笑しながら聞いている。
 いつもの団欒の光景であった。
 そして料理の盛りつけが終わった頃。
「お母さ〜んっっ!!」
 娘の千鶴がやって来る。
「非道いのよっ、梓おばさんったら。私のこと『貧乳ボケ娘』だって! もうっ、
頭きちゃう!!」
「あらあら」
 そう言いながら楓は、微笑む。
 その時。

 ――ふわっ、

 と、風が吹いた。
 窓の外から。
 その風に振り向くように、楓の黒髪は静かに靡く。
 楓の顔が、窓の外の風景に向く。
「千鶴、居間に料理を出しておいて」
 そう言うが早いか、楓はエプロンを外すと玄関に向かって歩き出した。
「…………?」
 千鶴は不思議そうな顔をして、いそいそと外へ出ていく母の後ろ姿を見送る。
 そして、千鶴が台所に戻ったときに窓からまた微風が台所に届く。
 仄かな、甘い匂いがした。

 両手一杯の花束を持って、柏木耕一は歩いていた。
 会社からの送りの車を途中で降りて、近くの花屋で買ってきた物だ。
 薔薇。
 秋桜。
 霞草。
 胡蝶蘭。
 色々な花が入っている。
 妻の誕生日の為に買ってきたのだ。
 どれにすれば良いのか解らずに、結局抱えきれない程の花束を買ってきてし
まった自分に耕一は苦笑する。
 坂を上り始める。
 この坂を上れば、我が家まではもうすぐだ。
 そう思うと歩みも軽くなる。

 ――ふわっ、

 と、風が吹いた。
 耕一の背中を後押しするように。
 そして、耕一は歩き出す。

 坂の上で待っている楓の姿を思い浮かべながら。
「誕生日おめでとう」
 と、云う言葉を口の中で、何度も反芻しながら。


                               〈了〉

1998.11.15.UP


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