もう一度……。


 冷たい闇の中で蹲っている。
 たった一人、で。
 何時までも終わることの無い夢、を見ている。

 洗いたてのシーツにくるまれて、柏木楓は目を覚ました。
 ブラインドから射し込む日差しが、とても眩しい。
 隣の部屋からテレビの音も聞こえる。
「おはよう、楓ちゃん」
 ふと。
 楓の耳元に優しい声が、囁かれる。寝ぼけ眼で、楓は視線を声の方向に移す。
 ベッドの枕元に優しそうな笑顔が、楓の寝顔を覗き込んでいる。
 柏木耕一、であった。
「あっ……おはようございます」
 楓は慌てて、起きあがる。
 かなり慌てたのか、胸元のシーツがはらり、と落ちて、楓の白い胸が露わに
なる。
「――きゃっ」
 小さく悲鳴を上げると同時に、
 ぼんっ、
 と、楓の顔がゆでダコの様に、真っ赤になった。
 何度も耕一に見られている裸なのだが、やはり恥ずかしさが瞬時にこみ上げ
てくる。手元のシーツを引き寄せて胸元を隠しながら、楓はちらり、と耕一の
顔を伺う。
 耕一は、ただ微笑を口元に湛えながら其処に立っていた。
「…………えっち」
 ぽそり、と楓は言う。
「あっ……、ちっ、違うよ。ただ、楓ちゃんがうなされていたから、どうした
のかなって思って、さ……」
 両手を拡げて、戯ける様に耕一が弁解する。しかし、その弁解すらも何やら
楽しんでいる様に見える。
「…………えっ?」
 楓は耕一の言葉に反応して、
「私……うなされていたんですか?」
 と、言った。
「ああ、……何だか、とても悲しそうな声で俺を呼んでいたんだけど……覚え
ていないの?」
 こくり、
 楓が頷く。どんな夢を見たのか全く記憶が無かった。
 思い出してみようと思った途端、

 ――ぞくり。

 楓の躰に悪寒が疾った。
 まるで躰中が……いや、心すら凍り付きそうな寒さ、だった。
 一体私はどんな夢を見ていたのだろう。そう思い出そうとする度に、楓の悪
寒は更に強くなっていく。
「……大丈夫かい? 楓ちゃん」
 耕一が心配そうに、楓の瞳を覗き込む。
 その顔を楓が見つめ返す。
 気が付くと、楓は耕一の胸の中に顔を埋めていた。
 シーツから出ている細い肩が冷たく、かたかた、と震えている。どうしよう
もない不安が楓を押し潰そうとしていた。
「楓、ちゃん……?」
「そばに……いて……下さい」
 それだけしか言えなかった。
 耕一はそんな楓を見下ろしながら、優しく抱き寄せた。日差しが互いの影を
見失わせようとしている。耕一は楓の顎を持ち上げて、暖かく見つめる。
「大丈夫だよ……絶対に君のそばを離れないから……」
「……耕一、さん……」
 そう言うと、耕一は楓の唇にそっと自分の唇を重ねた。

 時間は既に昼近くになっていた。
 小さなテーブルに乗りきらないほどの料理がある。
 耕一と楓の遅い朝食だった。あの後、ちょっとベッドの上で『運動』をして
しまったからである。
 カチャカチャ、と箸と食器がぶつかる音をさせながら、二人は食事を摂って
いた。黙々と口に料理を詰め込みながら、食べる耕一を楓は嬉しそうに見つめ
ている。
 まるで、先刻の不安が嘘のようだ。
「……そう言えば、今日は楓ちゃんの誕生日、じゃなかったっけ?」
 口の中の料理を一息で、飲み下しながら耕一が言う。
「え? そうでしたっけ……?」
「うん、そうだよ……ほら」
 そう言って、耕一はテレビの上にあるデジタル表示のカレンダーを指差す。
 『十一月十五日・日曜日』
 と、カレンダーは表示されていた。
「……あっ、本当ですね」
 まるで人事の様に楓が応える。実際、楓には今日が誕生日だろうと祝日だろ
うと関係無かった。耕一と過ごせる一日一日が、『特別な日』だったのだから。
「今日はとてもいい天気だし……どこかに出掛けて……」
 窓の外から見える風景に視線を移しながら、
「……誕生日プレゼントを買いに行こうか?」
 耕一が言う。
 楓はその言葉に嬉しそうに、頷いた。

 外は快晴だった。十一月と言えば、もう冬に差し掛かっている筈なのに小春
日和の様な陽気だった。
 街中を楓は耕一と歩いている。
 そっ、と寄り添うように腕を組んで。
 耕一と一緒に色々な店を見ていく。
 アクセサリーショップ。
 CDショップ。
 映画館。
 ちょっと疲れたので、喫茶店で一息。
 本屋。
 ブティック。
 楽しい一時が過ぎていく。
 楓の足が、ある店で止まる。耕一も不思議そうに足を止める。
 ペットショップ、の前で。
 楓の目の前のショーウィンドウの向こうで、楓を見つめているモノがある。
 小さな仔猫、だった。
 ブラウンの毛並みのした、瞳の大きな仔猫であった。
 楓の瞳は仔猫を、仔猫の瞳は楓を映している。
 魅入られたように見つめ合う一人と一匹。
「……この仔が、欲しい?」
 そんな姿を見て、耕一が訊く。
「えっ? でも……」
「この仔猫も、楓ちゃんを気に入ったみたいだね」
 耕一がガラスの向こうの仔猫に向かって、指を動かすとそれに仔猫がついて
動き出す。
 そして、楓は恥ずかしそうに微笑む。
「……名前、一緒に考えような」
「……はい」
 そう言って、二人はペットショップの自動ドアに向かって歩き出した。

 楓の胸の中で、仔猫はゴロゴロと機嫌良く、喉を鳴らしていた。
 そんな仔猫の表情を見て、楓もつい笑みを浮かべてしまう。
 暖かい、陽気。二人だけで歩く並木道。
 繋いだ掌。耕一の優しい微笑み。
 幸せ。
 確かに楓はそれを感じていた。
 このまま、この幸せが続けばいい。
 楓は心から、そう思っていた。
 ――その時。
 耕一の足が、止まる。
 繋いでいた掌が、解ける。
「……耕一さん?」
 数歩歩いて、楓は立ち止まった耕一へ振り返る。
 耕一の視線は、楓を見ていなかった。
 その視線は。

 虚空を見ていた。

「……帰らないと」
 ぼそり、と耕一が呟く。
 ぞくり。
 楓の躰に、あの朝の悪寒が蘇る。
「…………もう、帰らないと、いけない」
 途切れ途切れに話す耕一の言葉は、意志の無い操り人形のようだった。
「…………いや」
 胸の中の仔猫が、びくり、と震える。
「いかないで……耕一さん……」
 その言葉に耕一は、楓に視線を向ける。
 だが、その瞳にあの暖かい光は宿っていなかった。
「……ダメなんだ、楓ちゃん……俺は……君とはいられない……」
「…………どうして?」
 楓は、問う。
 しかし、楓は知っていた。その理由を。
「どうして、だって? …………それは」
 耕一の口が動く。
 そう、もうずっと前から知っていたのだ。
 でも、それは聞きたくない言葉。否定したい、言葉。
「それは…………」
 胸の中の仔猫が、落ちる。
 それは地面にぶつかって、粉々に砕け散った。
 イヤ。
 聞きたくない。
 楓は耳を塞ぐ。
「それは…………」
 ――しかし、それは目を逸らせられない、『現実』。

「それは…………君が俺を殺したから」

 キミガ・オレヲ・コロシタ・カラ。
 世界が闇に包まれた。

 そうだ。
 私は確かに耕一さんを殺したのだ。
 あの日。
 鬼に意識を乗っ取られた耕一さん、がやって来て。

「……お、お姉、ちゃ、ん……」

 目の前で、妹の初音が殺されて。

「か、楓、あ、あんた、だけでも……」

 梓姉さんが、殺されて。

「……か……え……で……」

 千鶴姉さんも殺された。

 そして。
 私は自らの『鬼』の力で。
 耕一さんを……。
 耕一さんの腕を……。
 耕一さんの足を……。
 耕一さんの躰を……。
 耕一さんの首を……。

「やめてえええええええええええええええっっっ!!」

 ――――引き裂いた、のだ。

 気が付いたら、私は自分の腕の中に耕一さんを抱えていた。
 耕一さんの首、を。
 そう。
 これが私の見た『夢』。
 でも、これは『夢』じゃない。
 あの幸せな『現実』こそが、『夢』だったのだ。
 耕一さんの首が抱いている今こそが、『現実』なのだ。
 涙が零れていた。
 コレは『夢』なんだ。
 そう思いながら、私は眠る。
 とても幸せな『現実』を見る。
 だけど、目覚めてまた『夢』だったと知ったとき、私は泣く。
 愛しい人の首を抱きしめながら。
 いつか。
 この『現実』が『夢』であることを、信じて。

・
・
・
・
・
・

 死の荒野、が拡がっていた。
 目の前には砂漠しか拡がって、いなかった。
 その砂の中に埋もれて、かつては栄華を反映していた高層ビル達が顔を覗か
している。
 空は泥水をぶち撒けた様な、粘液質な色をしていた。
 中空に浮かぶ太陽は、残りの寿命を告げるかの様に赤黒い色彩を放っている。
 その荒野の中を歩く、人影があった。
 男、であった。
 さりさり、と細かい粉塵になった砂を踏みしめながら歩いている。
 その躰には厚手の外套を纏い、その顔はフードに覆われてよく見えない。
 死が蔓延するこの荒野を、男はただ静かに歩いていた。
 さり、
 さり、
 さり、
 砂を踏む音だけが、世界を包む。
 さり、
 さり、
 ……さり。
 男の足が止まる。
 目の前には、かつては教会であった建物があった。
 教会の中に足を踏み入れる。
 元々は美しかったのであろう、ステンドグラスや彫像が崩れて風化していた。
 その教会の奥に、一人の人影が蹲っていた。
 少女であった。
 男が入ってきても、少女はピクリとも動かない。
 祭壇の奥で少女は、何かを腕の中に抱えていた。
 こつ、
 こつ、
 こつ、
 靴の音だけが聞こえる。
 男の歩みが、少女の目の前で止まった。
「…………娘よ」
 男が初めて口を開いた。静かな、慈愛を含んだ声で。
「いつまで、そなたは闇に微睡んでいるのだ…………?」
「…………」
 少女は応えない。
「そなたは、あまりの哀しみに自らの『世界』を閉ざし、そして自らの『時』
すらも止めてしまった――見るが良い」
 男が割れたステンドグラスの向こうの世界を指差す。
「今……人の世は終わろうとしている。そして、この星の命も、な……」
 その瞳は深く慈しみの光を宿していた。
「……さて、今日は十一月十五日……娘よ、お前の誕生日だ……」
 ――ぴくり。
 誕生日、と云う言葉に少女が初めて、反応を示す。
「……私から、そなたに贈り物を贈りたいのだが……何か望みはあるかな?」
 少女の顔が上がる。
 その顔は、驚く程美しかった。時が止まっているかの様に。
 少女の腕の中には、乾涸らびた人間の頭蓋骨があった。
 男と少女の視線が、合う。
「…………も……う……」
 途切れ途切れの少女の声が、教会に響く。
「…………もう、一度……もう一度…………耕一さん……と……」
 男はその言葉を聞くと、ゆっくりと頷いた。
 とても、優しい瞳で。
「……では……そなたの望みを叶えよう……」
 男の掌に光が集まる。
 少女はその光を瞬きもせずに、見つめていた。
 眩しい輝き、だった。
 暖かい輝き、だった。
 その光はやがて二人を包み。
 教会を包み。
 砂漠を包み。
 空を包み。

 世界を光で包んだ。

 そして。
 優しい声が一言、こう言った。

『――では、もう一度』


                               〈了〉

1998.11.15.UP



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