裸身の月


 
 

 ――月光のように、はらはら、と。

 愛すると云う行為は簡単だ。
 しかし、愛し続けると云う行為は難しい。
 人を好きになって、愛するのは刹那の瞬間。だが、想い続けるとなると其れ
は甘美で危険で、とても辛くて脆い。
 想いが届かぬ、恐怖。
 相手に揺れ動く、疑心。
 己に想いに対する、不信。
 胸中に斬られるような残酷な思考と微睡むような甘美な羨望。
 其れが綯い交ぜになり――心が狂いそうになる。
 いっそのコト。狂った方が楽になれるかも知れない。

 ――こんな気持ちを、君は一体何時から抱えてきたのだろう?
 そんな思考を巡らせて柏木耕一は、傍らで微眠る少女を見つめる。
 柏木楓。
 其れが少女の名前であり、ただひとつの存在。
 一糸纏わぬ其の躰は、障子越しに濯ぐ月光を浴び白く映えた。寝顔にふと近
づき、静かな寝息を耕一は確かめる。
 もう目醒めないのかと云う、有り得ない不安を消す為に。
 白く小さな胸は穏やかに上下して、月灯りを透かした障子の格子が胸元に十
字の黒影を落とす。耕一は肩の辺りまで布団を持ち上げ、其の小さな躰に掛け
てやる。
「…………ん」
 小さく身動ぎをして無意識に身を寄せる、楓。
 夕刻から降っていた秋雨は何時の間にやら止んでおり、僅かに開いた障子の
隙間から真円の月が見て取れた。
 半身を起こして、夜風に流れる雲を眺める。
 雨樋から名残の滴が、池の水面に輪を描く。
 その時になって初めて、耕一は躰の熱さと咽喉の渇きを自覚した。
「――月の、所為か」
 ぽつり、と呟く。こんな月夜は咽喉が渇いて仕様が無い。
 水や白湯を飲んだ程度では癒されない、渇き。躰の――いや、心の奥底に潜
む衝動的な感情。こんな夜は其れが月に依って更に煽られる。
 傍らに眠る楓が胸に秘めていた想いも、こんなモノだったのだろうか。
 此の気持ちを、何と云えば好(よ)いのだろう。
 愛おしさと呼ぶには、情欲が濃く。
 陵辱と呼ぶには、余りに切なすぎる。
 全ての感情が耕一を縛っていく。
 全ての記憶が楓を縛っていく。
 全ての衝動が二人を繋いでいく。
 正しい事なのか間違っている事なのか、考える暇(いとま)すら無く。
 幾夜も躰を重ね、月に問い掛ける。
  池の面で水輪が重なり合い月が滲んでいく。掌を涵(ひた)せば秋月の欠片
を手に入れられるだろうか――此の縛られた鎖を解く鍵、を。

 ――この縛鎖を解いて、どうするというのだ?

 渇いた笑みが浮かぶ。
 欲しいものは此処に在るではないか。何をこんなに焦りを感じているのだ?
 ……いや、
 多分、自分は『証』が欲しいのだ。
 『柏木耕一』が『柏木楓』を愛していると云う証、が。あらゆるものに瞞さ
れない、自分だけの。たったひとつ、の。
 楓を愛おしいと想えば想う度、それは焦りとなり執心を生む。此の世に無い
モノを欲しがる子供のような癇癪だ。
 狂暴な――だが純粋な欲望が心を支配する。己に棲む『鬼』が応える。
 咽喉が震えた。
 ひゅうひゅう、と息が漏れ、躰が熱くなり蒲団の裾を握り締めた。
 ――ふと、
 固く握りしめた拳に白い掌が触れた。
「……耕一さん」
 控え目な、よく透る声。
 白い掌が拳を包み込み腕を絡め、耕一の胸に重みがのし掛かる。
 柔らかな肩まで伸びた黒髪が、さらり、と揺れて沈丁花の如き甘い薫りが頬
に触れた。
 楓、であった。
 細い指が胸をなぞり背に廻る。何も隔てない肌の温もりが伝わる。
 安堵の溜息が漏れた。腕の中にある確かな唯一、現実の感触に。
「……苦しまないで、耕一さん」
 楓が、囁く。
 その言葉が嬉しくて。
 その言葉が哀しくて。
 その言葉が愛おしくて。
 楓の躰を耕一は横たえ、唇で触れる。拒む気配は、無い。
 瞼は眠るように瞑ったまま息を怺(こら)えた咽喉は小さく痙攣した。耕一
は暫しの間焦らして、楓の薄い胸に掌を添える。
「……は……ぁ」
 細い躰が息を吐くのを見て、次の呼吸をするところを捉えて唇を合わせる。
 力の抜けた腕を首に廻して互いの隙間を埋めようとする。腕の力が籠もって
楓を離さまいと縛ろうとする。縛られた躰が痛むのか、楓の吐息が止まる。
「……強く……強く、抱き締めてください」
 離れた唇から、再び楓の囁き。何かが麻痺したように痺れていく。
「……そして、私を縛ってください。このまま」
 あなたの腕で。甦る記憶で。苦しむ衝動で。
 ――そして、あなたの想い、で。
「私はあなたのモノです。……あなただけ、の」
 私の躰も。遠い記憶も。ずっと抱えた想いも。
 誰のモノでもない、あなただけに。
 それが決して揺らぎの無い、偽りの無い、唯ひとつの――。

 幾夜の逢瀬も。幾度の行為も。幾千の云葉であっても。
 ――伝えたいのは、たった『ひとつ』の繰り返し。


 僅かな匂いで耕一は目を醒ました。夜明けの白々とした庭から、遅咲きの銀
木犀の小さな花が薫っている。
 肌寒さに僅かに震え、腕の中の温もりに気が付く。其の温もりを確かめるよ
うに優しく抱き締め耕一は障子の隙間から見える空を眺めた。
 月はもう、見えない。
 薄蒼の夜空は朝焼けの光に隠されてゆき、密やかに秋の気配が消えてゆく。
 耕一は瞼を鎖(とざ)し、楓の艶髪を梳きながら、やがて朝陽がふたりを照
らすのを静かに待ち続けた。其の刹那の微睡みの中で。


                               〈了〉

2000.11.15.UP



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