月下湖上〜楓〜


 ポッカリ月が出ましたら、
 舟を浮べて出掛けませう。
 波はヒタヒタ打つでせう、
 風も少しはあるでせう。

 沖に出たらば暗いでせう、
 櫂から滴垂る水の音は
 昵懇しいものに聞こえませう、
 ……あなたの言葉の杜切れ間を。


「耕一さん……」
 銀色の月が頭上に煌々と輝く湖の畔で、柏木耕一は不意に声を掛けられた。
 時は八月下旬。
 夏が、終わりを告げようとしていた。
 耕一が振り向くと、其処には月が生み出した儚い幻のように美しい少女が立っ
ていた。
 その瞳は、真っ直ぐ澄んでいる。肩の辺りでバッサリと切った髪は、月明か
りに照らされ、淡い藍色を放っていた。
 少女の名は、柏木楓といった。
「楓ちゃん、躰は大丈夫なのかい?」
 ゆるりと近づき、耕一は優しく声を掛ける。
 数日前。
 耕一はこの湖の畔で、楓の実姉である柏木千鶴と死闘を演じた。
 己の「鬼」を克服する為に。遠い昔の失われた遠い記憶を、取り戻すために。
 耕一は、一度は「鬼」へと変貌する。
 殺戮を楽しむだけの、「鬼」に。
 しかし、耕一は「鬼」を克服する。
 目の前の少女の、無垢なる願いにより。
 遙かな、遠い前世の約束の為に。
 そして。
 二人の確かな「想い」によって。
「はい、傷は大体、塞がりました」
「……そうか」
 すっ、と耕一の左手が楓の胸元へ、伸びた。
「あっ……」
 小さく、楓の声が零れる。
 その躰には、薄着の夏服しか纏われていない。
 耕一の手が上着ボタンを外し、胸元を開く。
 白い項。
 細い肩。
 楓の頬が、桜色に染まる。
「…………ご免な」
 耕一の言葉が夜風に、溶ける。
 その指は、楓の胸元の「痕」をなぞっていた。
「…………え?」
「女の子に、こんな痕をつけてしまうなんて…………」
 その顔が、苦渋に溢れる。
「耕一さん…………」
 楓は、そっ、と耕一の胸の中に顔を埋める。
 その手が、背に回される。
 心地良い、温もり。
「……いいんです、直ぐに消えますから」
「……でも、君の中の痕は、消えないよ」
 ふわり、と耕一の手が楓の頬を撫でる。
「楓ちゃん、依然君は俺の事を好きと言ってくれたよね」
「…………はい」
「それは、俺が次郎衛門だからなのかい?」
「…………!」
 楓の表情が、こわばる。
 耕一は、迷っていた。自分の目の前にいる、この少女への「想い」に。
 ――もしかしたら。
 この『想い』は、次郎衛門の記憶に依るものではないのか。
 そして、楓も。
 だとすれば、自分の本当の気持ちは一体、何なのだろうかと。
 耕一は、迷っていたのだ。
「だとしたら…………俺は…………」
「…………耕一さん」
 楓は耕一の躰を力一杯、抱きしめた。
 その腕は力を入れすぎて、白くなる。
 その瞳は、真っ直ぐに耕一を、見る。
「確かに、エディフェルと次郎衛門の記憶は、私達の中にあります。でも……」
「……でも?」
「私が好きなのは、耕一さんです。…………次郎衛門じゃない、……此処にい
る、耕一さんなんです」
 言葉が、耕一の胸の中でくぐもる。
 楓の肩が、震えていた。泣いているのだ。
 その時、月が不意に輝いた。
 楓の悲しみを、写すように。
 このとき、耕一はやっと気付いた。
 本当の、気持ちを。
 どれだけ、楓を『想って』いるのか。
 それは過去の記憶などからではない、今生きている『柏木耕一』の『想い』
だった。
 守ってあげたい。
 幸せにしてあげたい。
 抱きしめてあげたい。
 それは、純粋な「想い」。
 過去の記憶に捕らわれていたのは、楓ではない。
 自分だったのだ、と言うことに。
 耕一はやっと、気付いたのだ。
「ご免……、楓ちゃん」
「耕一さん?」
「…………俺も、好きだ。……楓ちゃん、君が、好きなんだ」
 自分の気持ちを、振り絞るように耕一は、楓の耳元に囁いた。
 楓の躰を、抱きしめる。
 強く。
 強く。
「こ、耕一さん……」
 楓の躰が、震える。
 哀しいから、じゃない。
 嬉しい、からだ。
「楓ちゃん……」
「……あっ」
 耕一が楓の唇を、優しく塞ぐ。
 長い、接吻。唾液が唇の端から、顎に伝う。
 それでも唇は、離れない。


 月は聴き耳立てるでせう、
 少しは降りても来るでせう、
 われら接唇する時に
 月は頭上にあるでせう。


 耕一の唇が、離れる。
 楓は熱い吐息を、つく。
「痕を……」
「…………え?」
 耕一の指が、胸元に触れる。
 ぴくり、
 楓の躰が少し、震える。
「耕一さん……」
「癒してあげる……、君の、痕を……」
 顔を胸元に、近付ける。
 胸の痕を、耕一の舌が、なぞる。
 優しく。
 優しく。
 優しく。
「ふあぁっ……、耕一……さんっ……」
 耕一の頭を抱えて、楓の声が震える。
 楓の胸元からは、甘い、薬の匂いがした。
 頭の中が、痺れていくのを耕一は、感じていた。
 そっ、と耕一は楓の躰を柔らかい草の上に横たえた。
「……手を」
 楓が耕一の掌に、自分の手を重ねた。
「……か、楓ちゃん」
「手を……、離さないで、下さい」
 きゅっ、
 楓の小さな手が、耕一の手を握りしめた。
 耕一も、握り返す。
「……離さないよ、どんな事があっても」
「……耕一さん……」
 その光景を、月は静かに見守っていた。
 ――ただ、静かに。


 あなたはなほも語るでせう、
 よしないことや拗言や、
 洩らさず私は聴くでせう、
 ……けれど漕ぐ手はやめないで。

 ポッカリ月が出ましたら、
 舟を浮べて出掛けませう。
 波はヒタヒタ打つでせう、
 風も少しはあるでせう。



                               〈了〉

(作中の詩編は私の敬愛する、中原中也作「湖上」より引用させて頂きました)

1997.12.10.UP


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