『手術中』。 俺の目の前に、そう書かれたランプが点灯している。 一体どれだけの時間が、経ったのだろう。 一時間? 二時間? いや、三十分位かも、しれない。 病院の廊下。 手術室の扉の、前。 其処で俺はただ、立ちつくしている。 コチ。 コチ。 コチ。 時計の秒針の音だけが静かな廊下に、響く。 まるで自分だけが時間から取り残された様な錯覚を、覚える。 静寂に耳鳴りが、してくる。 窓の外を、見る。 手術が開始した時は中天にあった太陽が、既に西の空へ沈もうとしていた。 綺麗な、夕焼け。 『……今日の夕焼けは何点?』 不意に。 出会った頃の言葉を思い出す。 夕焼けの紅に染まった、学校の屋上。 そこで、俺はあの人と出会った。 冷たい、瞳。暖かい、笑顔。 みさき先輩。 俺より一つ年上の、女性。 俺の学校の先輩、で。 可愛く、て。 優しく、て。 盲目、で。 でも、それを気にしないくらい心が強い人、で。 俺が何より愛する、大切な人。 そして。 今、彼女は俺の目前の扉の向こうで独り、闘っている。 再び光を取り戻す為、に。 『……じゃあ、行って来るよ』 手術室に入る、前。 みさき先輩はそう言って、微笑っていた。 でも。 俺の手を握っていた掌が震えているのを、俺は知っている。 『怖いよ』 『そばにいて』 掌から先輩の気持ちが、伝わってきた。 俺はしっかりと、その掌を優しく握って応える。 そして、俺は祈った。 心、から。 神様……。 神様、お願いです。 先輩を救って下さい。 その為なら、どんな事も厭わない。 例えこの命を差し出して、でも。 心、から。 ――そう、思った。 さらに時間が、経った。 どの位の時間が経った、のか。 そんな事は、どうでも良かった。 ……その時。 ふっ、 と、手術中のランプが消える。 そして。 きいっ、 と、目の前の扉が開き、手術着の医師が姿を現す。 手術着のあちこちには、黒い染みがついている。 血、だ。 先輩の血、であった。 医師が俺に目を留めて、歩いて来る。 どくん、 どくん、 俺の心臓が、強く鼓動を打つ。 目の前の光景が、ぐるぐる、と回る。 喉が、カラカラに乾いていた。 「……川名さんのご関係の方ですね」 静かに医師は俺の前に立って、そう言った。 こくん。 ぎこちなく、俺は頷く。 どくん、 どくん、 どくん、 心臓が更に、早鐘を打つ。 早く結果を聞きたかった。 いや。 聞きたくないのかも、しれない。 どちらとも、言えなかった。 ただ、この一瞬がとてつもなく長く感じているのは、事実であった。 俺の目の前で、医師はゆっくりと口を開く。 「……手術は……成功しました」 その言葉を、聞いた時。 俺は床に、座り込んで。 嬉しくて――泣いた。 それから、四日後。 ようやく俺は、みさき先輩との面会を許された。 「…………よう、先輩」 俺は柄にもなく花なんかを買って、病室の扉を叩いた。 甘い薬品の匂い。 カーテンからの柔らかい、日差しの中。 白いベッドの上で、先輩は微笑んでいた。 その顔には、白い包帯が巻かれていた。 「……待っていたよ」 久しぶりに聞く、先輩の声。 暖かい、日溜まりの様、な。 ずっと。 ずっと、聞きたかった、声。 四日程度しか会っていないのに、まるで一年も会っていない気分になる。 寂しさ。 嬉しさ。 そして……愛しさ。 全ての感情がごちゃ混ぜになって、こみあげてくる。 ゆっくりとみさき先輩に、近付く。 ……あと、一メートル。 歩調が、早くなる。 ……あと、五十センチ。 床に花束が、落ちる。 ……気がつくと。 俺は、みさき先輩を抱き締めていた。 華奢な先輩の、躰。 それを力一杯、抱き締める。 「……いたい、よ……」 そう言いながら、みさき先輩の腕が俺の背中に、回る。 互いの温もりを、感じる。 吐息が、聞こえる。心臓の音が、伝わる。 先輩の存在を、俺は躰中で感じていた。 「……ねえ、お願いがあるんだよ……」 俺の胸の中で、みさき先輩が言う。 「……なに? 先輩」 「……この包帯を、取ってくれないかな」 と、先輩が顔の包帯に触れて、 「…………一番最初に、君の顔が……見たいよ」 そう、言った。 「……いいよ」 俺は、そう言うとみさき先輩の顔の包帯に、そっ、と触れた。 そして、包帯を外しはじめる。 ゆっくり、 ゆっくり、と。 先輩の顔から、白い包帯がとれる。 綺麗な、先輩の顔。 でも、瞼は閉じたまま、だった。 暫しの、沈黙。 しかし。 瞼は、開かない。 「…………先輩?」 「…………怖いよ」 震えている、みさき先輩の声。 怯えているのだ。 これから、見える世界、に。 今まで、望んでやまなかった世界、に。 もし。 もしこの瞼を開けて、何も見えなかったら……。 そんな考えが恐怖を呼んでいる、のだ。 「……先輩」 俺は、そんな先輩の顔に近付いて、 「…………えっ?」 瞼に、優しくキスを、した。 「おまじない、だよ……」 「…………うん」 顔を桜色に染めながら、先輩の顔が俯く。 小さく、深呼吸。 そして、再び顔が上がって。 ――瞼が、開いた。 「…………」 「…………」 時が、止まる。 互いに、一言も喋らない。 永遠とも思える、静寂。 俺はみさき先輩の瞳を、覗き込む。 「…………先輩?」 「…………見えるよ……」 みさき先輩の、瞳。 かつては冷たい闇しか写していなかった、その瞳に。 暖かい光が、宿り。 俺の顔が、写っていた。 「……………初めまして」 「うん、……初めまして」 互いに、微笑んで。 それから。 互いの顔が、近付いて。 ふたりの瞳から、涙が溢れて。 頬を伝って零れる前、に。 俺とみさき先輩は、優しい口付けを交わした。 〈了〉 1998.6.6.UP