Raining Blues


 
 
 雨音がひそ、と静まる。
 風の気配が、失せてゆく。
 窓外の風景は曇り空の下、出来の悪いモノトーン写真のように見える。
 音も無く。色も無く。生気すらも無くしたみたいに。
 ロス=アンジェルス。コリアン・タウンの一角のアパート。
 その一室で男が一人、窓辺の光景を眺めていた。
 男と云うよりは、まだ少年の部類に入るあどけない容貌。
 しかし、長く伸びた前髪の奥にある瞳は年相応の少年には似つかわしくない
色が潜んでいた。
 夜の海の掴みどころの無く深い静けさを讃えた、瞳。
 別に何の感慨も無く。表情の色すら見せずに。
 ただ、外の風景をその奥に映していた。
 男――いや、少年は窓から外した視線を、手元に向ける。その掌には余りに
無骨で、冷たく、危険な重み。
 ベレッタ・M92FS。
 あらゆる生ける存在に鉛弾を吐き出す、拳銃という名の告死天使。
 それは少年の手の中で分解、整備されていた。
 無駄も淀みも無い手付きで、少年は黙々と組み立てていく。細かく丁寧に扱
うその仕草には、長い間生死を共に渡り歩いてきた愛情すら感じる。
 そう、
 この銃と共に過ごしてきた、数年間。
 血と死と硝煙にまみれた、舞台。苦悶の呻きと絶叫の、声楽。
 それが少年の世界の全て。
 少年は殺し屋。しかも頗(すこぶ)る付き、の。
 闇の組織『インフェルノ』の暗殺者・ツヴァイ。
 そう呼ばれて過ごすことも、命令されることも慣れてきた。――元より名前
など持ってはいないのだから。
 今更、失った名前にどれだけの価値があると云うのだろう。
 そんな風に考えながら、遊底を銃把にはめ込み、ボルトで固定した頃。
 少年――ツヴァイの視線が再び、窓に向く。
 ――雨が再び降り出していた。

 細い斜めの点線の雨は、目の前の風景を切り取っていく。
 雨を避ける為に走り出す人々の中に、独りの少女がいた。
 アイン。
 それが少女の名前。少年――ツヴァイと同じく『インフェルノ』の暗殺者。
 『インフェルノ』――と、云うよりは主人のサイス・マスターの元に行って
いたアインは、その足でツヴァイの待つ二人の隠れ家へ帰るところであった。
 足早に擦れ違う人達と異なり、アインの歩調はゆるやかである。
 傘は差していない。
 ただ、静かに小さな躰を降雨に曝している。
 頬に流れ落ちる雨が、その身の罪を流して去ってくれることを望んでいるか
のように。
 ――しかし、それは叶わぬ願いだとアインは気付いている。
 こんなささやかな雨なんかでは、拭えはしない。この罪は。
 濡れた髪を掻き上げて、空を見上げる。
 泥水をぶち撒けたかのような空。冷たい雨。
 低い唸り声を響かせて、横をバスが通り過ぎる。
 どれだけ、そうしていただろう。
 不意に――、
「――濡れるのは躰に善くないな。お嬢さん」
 声が届くと同時に、周囲の雨が止む。
 それが自分の頭上に傘を差し掛けられたのに気が付くと、アインは自分を見
つめる優しい瞳を不思議そうに見つめ返した。
 黒人の男、だ。
 年齢は大体――八十歳は過ぎているだろう。黒い肌に黒い瞳。髪と髭が対照
的に真白い。その顔には老人の人生を物語るように幾筋もの皺が刻まれていた。
「…………あ、あの」
 戸惑ってアインは思わず言葉を漏らす。
 何時も敵を欺く為の演技などでは無く、本当に困ったように。
 老人はそんなアインを、ただ優しく見つめて、
「雨の中での立ち話もナンだな。――ウチへいらっしゃい」
 と、自分の背にある小さな花屋を親指で示した。

 小綺麗な店、だった。
 何年も使い込んでいる机と椅子、そして老人と同じぐらい古いレジスター。
 花を包む為の、英字新聞。バケツ。白い素焼きの鉢。
 そして、店に溢れんばかりの花達。
 アネモネ。
 ミモザ。
 デンファレ。
 リシアンサス。
 チューリップ。
 薔薇や朝顔すらも、ある。
 季節感がてんでバラバラで当然、香りも凄まじい筈なのに店内は微妙なバラ
ンスの為か、さほど感じさせない。
 足下にある水仙に視線を向けて、アインは花達の静かな香りの囁きに、耳を
澄ます。僅かな香りで癒されていく感じ、がする。
「――はい、気をつけてな」
 そう言って老人は、乾いたタオルと銅製のマグカップに入れたコーヒーを差
し出す。
 暫くの躊躇の後、アインは静かに受け取る。
 髪の雫を軽く拭いながら、コーヒーを口に含む。――危険なモノは混入され
た気配が無いのを確認する。
 ただ、煎れたばかりなのか少し熱かった。湯気を吹きながら、そろそろと猫
が舐めるように飲み始める。そんなアインを老人は変わらず、静かに優しく見
ていた。
 外はまだ雨が降り続いている。
 路面に雨粒が落ち、幾重もの水輪を描く。
 古ぼけたラジオから雑音混じりの放送。ジャズを中心とした放送だ。
 ピアノの旋律が、外の雨音と不思議なセッションを奏でる。
 アインと老人はソレに耳を傾けているのか、一言も喋らない。
 だが、それが息苦しいとは感じない。寧ろ安らいでいく、ような。
 カップのコーヒーが半分まで減った頃。
「…………なぜ」
 口を開いたのは、アインの方だった。
「ん?」
「……なぜ、見も知らない、わたしに……」
「見も知らないってワケではないよ」
 アインの問いに老人が、笑みで受ける。視線を路上――アインとツヴァイが
住んでいるアパートの方角――へ向けた。
「アンタ、この先のアパートに住んでいる学生さんじゃろ?」
「え? ……ええ」
「儂はもう、五十年以上ココに座っていてな……ま、この付近の人間達は大概
知っているんだよ」
 その永い年月を想い出しているのか、老人の眼が細まる。
「……色々なヤツらを知っているよ。会社員、芸術家、アメフトの選手、ギャ
ングや娼婦も。――色々な希望や未来を信じている顔を、な」
「……」
「でもな、その中でお嬢さん――アンタの顔はとても哀しく見えるんだよ」
 カップを持つ手が、僅かに震えた。
「無表情を装って、他人とは関わりも持たないようにして――そのくせ、人と
触れたがっている。赦しを求めている」
「……」
 老人の瞳が不意に、冷たくなる。

「アンタの今の顔には――未来も希望も、ない」

 がたんッ。
 椅子を蹴って、アインが立ち上がる。その瞳には僅かな動揺を浮かべて。
 老人を睨み付ける。――欺き続けていた一般市民の顔では無く、幾人もの人
間達を死の門まで誘(いざな)ってきた暗殺者『ファントム』の瞳、で。
 だが、老人は臆した風も無く、静かに見つめ返すだけであった。
 深く、憐憫の眼差し、で。
「…………あなたに、何が解ると云うんです」
「そうだな。儂には解らないかもしれん」
 あっさり、と老人は応える。
「――だがな」
 言葉を、続ける。
「アンタが、これからどんな人生を歩んでいくとしても。少なくとも二人の人
間がアンタの幸せを心から望んでいる」
「……」
「――それだけは、忘れないで欲しいんだよ」
 老人から視線を逸らす、アイン。
 雨音が聴こえなくなってきた。
 ゆっくりと立ち上がると店の棚から、老人は一つの鉢植えを取り上げる。
 真紅の穂の形に開いた花――サルビアの鉢植え。それを袋に入れ、アインに
静かに手渡す。
「持って行きなさい」
 老人の瞳が再び、優しさを含んだ光を宿す。
 アインは暫く、手の中のサルビアを見つめていたが、
「……ごめんなさい」
 と言って、ゆっくり、と細い霧雨の外へと歩き出して行った。
 ――数歩、進んで。
 アインは花屋の方へ、振り返る。店の前では老人がアインを見つめていた。
 老人に一瞥をすると、アインは再び静かに歩き出した。

 その姿が見えなくなるまで見送ると老人は店内に戻り、椅子に座って、いつ
ものようにラジオに耳を傾ける。
 余計なことをしたかな?
 老人はそう思いながら、苦笑する。
 アインの幸せを望んでいる二人の人間――確かに、老人はそう言った。
 一人は、自分だ。コレは間違いない。
 でも自分なんかより、あの少女の幸せを望んでいる瞳を持つ少年を、老人は
知っている。
 何時でも、少女の背を見ている中国人――ひょっとしたら日本人かもしれな
い少年。その想いに少女は気が付いているのだろうか?
 手渡したサルビアの花言葉、そのままの――少年の想い。
 いつか、それが届いて幸せになれますように。
 そう思い、老人はラジオの音楽を聴きながらゆるゆる、と微睡む。
 音楽はブルースだった。

 老人は気が付いたのだろうか。
 振り返ったアインが、聞こえない声で呟いた言葉を。
 ―――ありがとう、と。

 アインが戻ってきた時、ツヴァイは驚きを隠せずにいた。
 殺風景なこの部屋には多少不釣り合いな紅い花が、テーブルに置かれる。
 雨で閉め切っていた部屋に、水気を含んだ甘い香りが漂う。
 椅子に座り、その花をアインは暫く見つめる。
 ツヴァイはそんなアインと紅い花を見つめていた。
 先程の外の風景を見ていた何の無感動に無表情な瞳では無く。
 ――ほんの僅かな、言葉に出来ないような色彩を映して。
「……なに?」
 その視線にアインが気が付いて、問い掛ける。
「――いや」
 言葉を濁しながら、ツヴァイはアインから視線を外せないでいた。
 そして、一言。

「その花――よく似合っている」

 そう言ってから。
「――とても、ね」
 と、付け加えた。
 ――何を言っているんだ、俺は?
 出てきた言葉にツヴァイ自身が困惑した。普段なら絶対に口にしない言葉。
 でも、今はそう言いたかった。心から。
 黒銀の髪を揺らして、そんなツヴァイをアインは静かに見ていた。
 視線に堪えきれずにツヴァイは、窓の外へ向く。
 その背中に――、

「――――ありがとう」

 アインの呟き。聞こえないぐらいの小さな吐息の呟き。
 聞こえただろうか? 目の前にいる、この少年に。
 背中は応えない。どんな顔をしているのか知る術も、知らない。
 でも、今はそう言いたかった。心から。
 口に出来ないような気持ちが胸の奥底に沁みて、再びアインは紅い花を見つ
める。
 沈黙は語る。何も言わなくても十分だと。
 二人の耳朶に静かに音楽が聴こえてきた。

 今、このひとときを惜しむかのような、静かなブルースの旋律が。


                               〈了〉

2000.7.8.UP



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