君と云う名の僕に教えたい





 梅雨がそろそろ近付いてくる、五月晴れの碧空。
 樹々の新緑の合間を縫って柔らかい陽射しが静かに降注ぐ。微風が吹く。未
だ柔らかな若葉達が葉摩(はず)れの音を囁く。迷路のような整形式庭園(フォーマルガーデン)を歩き、淡い
桃色の蔓薔薇(つるばら)柱廊(コリドー)を抜けて、僕は大きな鈴懸樹(プラタナス)の根元に坐るその姿をやっと
見付けた。


   君と云う名の僕に教えたい


「……あら、兄やさま」
 近付いてくる足音に気付いて、メイド服の黒髪の女性──じいやさんが振り
向く。そっ、と色白の人差指を口元に持っていき「お静かに」の小声と仕草。
 僕も微笑いながら肯いて、視線をじいやさんの膝枕で眠っている妹──亞里
亞の寝顔へ向けた。仔猫のように躰を丸めた姿。小さな唇から規則正しい呼吸。
()じた瞼は長い(まつげ)を震わせている。夢でも見ているのだろうか。
「…………ん」
 小さな寝言。身動ぎして、亞里亞はじいやさんの躰に擦り寄る。じいやさん
も普段とは違った慈しむような微笑を浮かべながら、亞里亞の細い薄藍の髪を
指で梳く。二人の横には小さな銀の茶盆(トレイ)。ミルクティーの入った青磁のカップ
と琺瑯(ほうろう)のポット、白磁皿に載ったショコラとハトロン紙に包まれた蜜飴(キャンディ)。
「ひょっとして……昼から此処にいたの?」
「ええ。とても好い天気ですし。何より――」
 じいやさんが横の位置の敷布(シート)を軽く叩く。坐ってください、と云う誘いを受
け、僕はじいやさんの横に坐る。鈴懸樹(プラタナス)の幹に軽く背を寄り掛けた。
 向うの芝生から小さな忍冬花(スイカズラ)が咲いているのが見えた。
「――何より……どうしたんです?」
 そう尋ねながら茶盆に残っていたショコラを摘んで口に入れる。行儀が悪い
のは今更だ。咎める様子もなく、じいやさんが言葉を続けた。
「――亞里亞さまが、悩んでいるような感じがして」
 ショコラが喉に詰まりかける。慌ててカップのミルクティーを飲む。
 決定的、だった。
 こんな反応をしてしまう程、自分も気が付いてはいた。最近の妹――亞里亞
の振る舞いが兄妹の其れとは違う事を。可憐さと(いとけな)さの含まれた、慕情。
 気が付いては、いたんだ。
 だけど、其れを識って何が出来ると云うのか。出来やしない。
 冷め切ったミルクティーの残りを喉に押し込んで、吐息。横を伺えばじいや
さんが見詰めている。その琥珀(こはく)色の瞳は少しばかりの困惑の色。
「……僕の所為(せい)、なのかな?」
 その瞳を見ているのが辛くて、手元の青磁のカップに視線を落とす。
「――いえ、兄やさま。そうではなくて……」
「……?」
「そのカップ……私の……なんです……けど」
 申し訳なさそうに僕の持つカップを指差す、じいやさん。
 ――――あ。
 じいやさんの頬が少し紅くなる。僕も恐らく同じようになっているだろう。
頬が熱い。樹の根元から小さな飛蝗(バッタ)が僕とじいやさんの間を跳び抜けた。
 不意に。
「……ぷっ」
「……はは」
 僕達はどちらともなく笑い出した。無論、亞里亞を起こさないように口元を
押さえながら。

「兄やさまが原因なんて、ずっと前から()っていますよ」
 事も無げに言う。随分悩んでいる事を一瞬で片付けるように。
 莫迦みたいに碧い空を、見上げる。
「――今、亞里亞さまは自分の気持ちに戸惑っているのだと思うんです」
 亞里亞の髪を撫でる。じいやさんの左右に垂らした長い艶髪が揺れた。
「唯、自分だけ愛して欲しいと云う欲望から、自分もその人を愛してあげて、
――愛されたい、と云う感情に」
「それは――、」
 子供が親を独占したい感情と男女が互いを慈しむ感情。
 その二つの感情は『好き』と云う言葉では同じだけど――違うもの。
 自分が亞里亞に抱いている感情は、どちらなのだろう。僕も戸惑っている。
此の胸に在る名付けようのない感情に。
 ――ふと、そんな事を考えていて。
「……兄やさま。亞里亞さまを倖せにしてあげて下さいね」
 その台詞を思わず聴き逃しそうになった。
「じ、じいやさん……。そんな、僕は……」
「亞里亞さまの事が、お嫌いなのですか?」
「それは──、」
 嫌いな訳が無い。沈黙を肯定として応える。じいやさんは可笑しそうに肩を
竦めた。そして膝で眠る亞里亞と僕を見て――、

「――じゃあ、いいじゃないですか。倖せなら」

 と、言う。実にあっさり、と。
 でも其れは決して上辷(うわすべ)りする軽薄な気持ちなどでは無く、僕と亞里亞に立塞
がるであろう困難も受容(うけい)れた──強い意志。
 そして一緒に歩んでいくと云う、誓い。
「──いいんですか?」
 僕が、訊く。瞳を僅かに伏せ、直ぐにじいやさんは頬笑んで応えた。
「亞里亞さまと兄やさまの倖せは──私の倖せ、なんですよ」
 使用人と云う立場からの義務感では無い、言葉。
 長い間、亞里亞の傍にいて、亞里亞を(たしな)め、亞里亞を慰め、亞里亞と喜び、
亞里亞と共に過してきたこの人しか(いだ)けない想い。
「それに──、」
 悪戯を思い付いた子供のような、じいやさんの顔。
「よく言いますでしょ、『無理を通せば道理が引っ込む』って。……あ、『人
生やったもの勝ち』だったかしら?」
 ──絶句。
 剰りの事に呼吸を忘れたのか、頭が眩々(くらくら)する。
「……じいやさん、ひょっとして性格かなり過激じゃありません?」
「そうですか? 安心して下さい。私は亞里亞さまと兄やさま以外では、そん
な違法な事はしませんから」
 ……つまり其れは『僕と亞里亞の為なら違法な事をやる( 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、)』と同義なのでは、
と怖い考えが浮かんで頭を抱える。
 今迄培ってきた、じいやさんの厳格な印象(イメージ)がガラガラと音を立てて崩れいく。
「兄やさま」
 若葉達の合間から擦り抜けた陽射しを掴み取るように腕を伸ばす。
 近くで四十雀(シジュウカラ)が啼いている。じいやさんの指先が僕の肩に、触れた。
「私は亞里亞さまのお世話をして、色々と気付かされたんです。大人になると
忘れて仕舞う事、気持ちが鈍くなっていく事──一緒にいて微笑う事も。それ
が使用人として当り前の事なんだ、って」
 何故、気付かなかったのでしょうねと、じいやさんは苦笑を漏らす。
 亞里亞の寝息が小さくなってくる。そろそろお目醒めの時間。
「でも、亞里亞さまの前だと私は『私』でいられるんです。怒ったり、悩んだ
り、喜んだり、機械みたいな使用人の私では無くて──本当の私( 、 、 、 、)に」
 優しい笑顔。亞里亞はこんな、じいやさんの顔を見てどう想うのだろう。
「だから、御屋敷の使用人達と今の私とでは決定的な違いがあります」
「──決定的な違い?」
 じいやさんは肯いて、琥珀色の瞳に僕を映す。

「──私は、無条件でお二人の味方です( 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、)」

 強い風が吹く。翠緑(みどり)の芝生を波立たせ、掌形をした鈴懸樹の若葉達がざわめ
き、忍冬花が静かに揺れる。じいやさんも前髪を風に流されないように押えて、
瞼を()じた。風は、ほんの数秒で止む。
 と、
「…………んん……」
 小さな寝起きの声。何度か身動ぎして、じいやさんの膝枕から亞里亞が身を
起こした。そして寝惚け眼で周囲を見廻して僕の姿を見付けると。
「あ……兄や……」
「わっ……っと」
 首にその小さな腕を廻して抱き着いてくる。眠っていた為か亞里亞の躰はと
ても暖かく、触れた頬は水蜜のように柔らかい。両腕で抱き留めたその小さな
躰は隙間無く触れ合おうと更に身を寄せて甘える。まだ寝惚けてるらしい。
「……兄やぁ」
 もう一度僕を呼び、亞里亞は安心したようにまた目を鎖じる。
「ちょ……っ、亞里亞?」
 そのまま亞里亞はまた眠って仕舞う。僕が動けないように上着の裾をしっか
りと掴んだまま。まいった。溜息が出る。
 そんな僕と亞里亞の姿を見て頬笑みながら、じいやさんは手際良く銀の茶盆
にカップやポットを片付けていく。
「……では、兄やさま。亞里亞さまの事お願いしますね」
 銀の茶盆を両手に抱えて、じいやさんが立ち上がる。僕は動くに動けなくて
腕の中の亞里亞を起こさないように、じいやさんに小声で訊いた。
「……亞里亞、あとどのくらいで起きるんですか?」
「さあ。……確か前は陽が落ちるまで眠ってらっしゃいましたが」
「……じいやさんは、僕の味方ですよね?」
「それ以前に、亞里亞さまの味方ですけど?」
 意地悪そうに、じいやさんは微笑う。頬を引き攣らせながら、僕も微笑う。
 空を見上げれば、未だ五月の太陽は中天を傾いたばかりだ。更にまいった。
溜息すら出ない。暢気(のんき)な亞里亞は僕に(もた)れ掛かる。
 その時、
「──あっ、」
 指先が触れたのか、亞里亞の細い首筋の髪留めが外れた。
 押える間も無く、薄藍の髪がさらさらと解ける。空を飛ぶ妨げになるからと
窮屈に縛り付けられたような長く細い艶髪は、翼のように拡がってゆく。風が
艶髪を優しく梳く。髪や躰から、甘い薫りも拡がる。砂糖や蜂蜜と云ったお菓
子のではなく、亞里亞自身の薫り。
 唯、それだけの事──なのに、僕の胸はこんなに早鐘を打つ。
 この気持ちをどうやって伝えれば()いだろう。どんな風に教えれば善いのだ
ろう。手紙、言葉、抱擁、それとも――?
「では、兄やさま。失礼いたします」
 じいやさんが深く(こうべ)()れて背を向け、歩き出す。
 ふと、
 その足が五歩ほど進んで、不意に振り向く。そして亞里亞と僕を見詰めて、
空いた左手を上げて──。
 ──あ、

 じいやさんが髪留めを静かに外す。

 黒檀(こくたん)の髪が風に(くしけず)られて、腰の辺りまで落ちる。
 黒髪は陽光を浴びて虹彩の輪を描く。じいやさんは、くるり、と輪舞して自
由になった黒髪を踊らせた。
 これが――本当のじいやさん、なんだなと僕は想う。


 夏が近付く碧空の下で。
 僕と亞里亞とじいやさんはこの季節(とき)一番眩しい笑顔をしていた、のだから。

                               〈了〉

2003.8.14.UP



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