それが、アイでしょう





 夜明け前から降っていた驟雨(しゅうう)が止んだ。
 ふうっ、溜息を洩らしながら彼女は長い花崗(みかげ)の外廊を歩いている。左右に分
け垂らした黒髪が揺れ、靴底がカツカツと床を規則正しく叩く。
(――秋の雨は嫌い)
 ふと、そう思う。
 雨で中庭に落ちる枯葉の掃除が大変だとか、洗濯物が湿って乾きにくいとか
色々とあるが、何より秋の雨は哀しい事を連想してしまい自然と気分を滅入ら
せる。
 足を停めると、庭の隅にある菜園(ポタジェ)から月桂樹(ローリエ>)の薫りが漂う。湿った朝風と共
に。空はゆうるりと赤みを帯び、一日の始まりを告げようとしている。
「……さて、」
 小さく独りごちると、軽く伸びをして歩き始めた。行き先は彼女の仕えるべ
き存在。この大きな屋敷の小さな主の寝室へ。


   例えばね 涙が(こぼ)れる日には
   その背中を 独り占めしたいけど


 約束も何もしていないけれど、行ってみようと想った。
 どうして、と理由を問われれば言葉にするのは難しい。
 (ただ)、そう想った、だけ。
 昨日の誕生日パーティーにも出席したけど、何かを置き忘れているような落
ち着かない気持ちになって――こんな朝早くに僕は目醒めた。
 窓の外を見れば薄暗い。夜明けまでには未だ時間がある。
 窓に付いた雨粒の冷たさに少し愕きながら、窓を開けると斜め向かいの小さ
な花屋が『春夏冬(あきない)中』の札看板を下げているのが見えた。
 年寄りのお爺さんの店なので朝早くからやっているのだ。店先へ霞草と白い
秋桜や山茶花(サザンカ)を出そうとしたお爺さんと眼が合って会釈をする。お爺さんも皺
だらけの顔を綻ばせて会釈してくれた。
「……さて、」
 小さく独りごちて、僕は洋箪笥(クローゼット)から服を取り出す。目的の場処は少し遠いの
で急がないといけない。行き先は僕の何より大切な存在。大きな屋敷に住む小
さな妹の元へ。


   優しさは時々 残酷だから
   求める程 こたえを見失う


「亞里亞さま……お目醒めですか?」
 控え目にノックして扉を開けた時、彼女は目の前の光景に呆気取られた。
 普段なら敷布(シィツ)に包まって眠っている筈の姿は無く、寝台(ベッド)の上には不器用にも
畳まれた夜間着(ネグリジェ)。そしてその横の大きな姿見の鏡台の前で、
「……あ、じいや」
 彼女の仕える少女――亞里亞が小さな躰を精一杯動かして、ドレスを着よう
としている最中であった。元々複雑な造服(つくり)の上、一人で着られるように考えら
れていないのを無理に着ようとしているので、彼女に気が付いた亞里亞は振り
向いた途端に平衡感(バランス)を崩して尻餅を着いた。
「亞里亞さまっ、」
 慌てて彼女は亞里亞に駆け寄る。躰の何処にも怪我が無いのを確認してほっ、
と溜息を吐く。そんな彼女を亞里亞は見詰めて、
「じいや……服着るの手伝って……」
 と、言った。薄柔絹(シフォン)地のシュミーズの裾が揺れる。
「……一体どうしたの云うのです? こんな朝早くに――」
 足元に落ちたドレスを拾い上げて、手慣れた動作で亞里亞にドレスを着せて
いく。肩と腰のラインを崩さないように左手で押さえながら、右手だけを器用
に動かして背部を結わえてゆく。当の亞里亞は何やらそわそわ、と落ち着き無
くしている。(しき)りに窓の外へ視線を向けていた。
「……あのね、兄やが来てくれるの」
 その相貌(かお)がとても嬉しそうに頬を染める。
「兄やさまが……?」
 左右に分けられた黒髪を揺らして首を傾げる。
「しかし、来られると云うお約束は聴いておりませんが……?」
「でも……来るの……来てくれるの」
 小さな――だけど、明瞭(はっきり)とした言葉。其れは恐らく事実なのだろうと――彼
女は不思議と信じる事が出来た。
 彼女の掌が最後の腰のリボンをキュッ、と結ぶ。
 と。
「…………あっ、」
 窓幕(カーテン)の隙間から柔らかな朝陽が射し込んでくる。しかし亞里亞が声を出した
のはその所為(せい)では無いのが解った。
 窓辺に近寄り、窓幕(カーテン)を引き開ける。朱と黄金(きん)色に染まる朝の並木道。其処に
小さな人影が大きなものを抱えて歩いているのが見える。誰であるかなんて考
える迄も無かった。
 彼女の横に亞里亞が立ち、その姿を見付け、駆け足で玄関に向かう。
 そんな後ろ姿を追いかけながら彼女は、くすり、と微笑った。


   雨上がりの街 虹が見えるなら
   今 歩き出そう 何かが始まる


 亞里亞の足は思っていたより速く、結局追い付いたのは玄関の入口広間(エントランス)だっ
た。
 少し歩調を落ち着かせて、黒髪を整えて、背筋を伸ばして毅然としようとす
る。でも、口元に浮かぶ頬笑みは隠せなかった。
(――私は何故、微笑っているのだろう?)
 そんな疑問が浮かぶ。(ただ)、主の家族を出迎えるだけなのに。
 亞里亞と一緒に並んで歩き、大きな樫の扉の把手(ノブ)に手を掛ける。

 そして――重い扉を、開く。

 少し肌寒い微風と、暖かな朝の陽射しが彼女の瞼を灼く。
(――ああ、)
 そうか、と彼女は理解した。
 言葉には出来ないけど、簡単な――そんな気持ちを。
 亞里亞が微笑んでくれる嬉しさ。家族が増えていく喜び。
 昔、幼い亞里亞に自分が話した事を想い出す。
 世界の何よりも、どんな物よりも甘く幸せな――お菓子のお話を。


   君がいるから 明日があるから
   独りきりじゃ生きてゆけないから
   こんなに近くに感じる それが愛でしょう


 茫乎(ぼんやり)としていた彼女の横を亞里亞は走り出していた。
 朝陽の向こうの人影も気が付いて、大きく手を振る。
 きっと、二人には約束なんてものは必要ないのだ。(たと)え、遠く離れて暮らし
ていたとしても、瞬く一時(ひととき)しか一緒にいられなくても、深く――とても深い絆
で結ばれている。
 雨上がりの繊雲を眺めながら彼女はそう想って、


   涙の数の痛みを 君は知っているから
   透き通るその眼の中に 確かな意味を探して
   笑顔見つけたい


 とても、嬉しそうに――微笑(わら)った。


                              〈了〉

2003.11.3.UP


<文中使用曲>
 下川みくに「それが、愛でしょう」
 上記の歌詞を引用させて頂きました。


Back to NovelS

inserted by FC2 system