返 事


 
 
 それは、よく晴れた卒業式の日。

「ほら、行きなさい」
 私の掌が親友の小さな背中を押した。
 親友――陽ノ下光は数歩進んで、
「……琴子」
  と、肩越しに振り返る。
 何かを言いたげな、瞳。薄い瑠璃色の瞳が濃くなる。
「…………」
「…………」
 互いに何も話さない。
 多分、光は私の気持ちが解っていたから。
 きっと、私は光の想いを知っていたから。
 何も話さなくても。
「…………ほら」
「…………うん」
 暫くの沈黙の後。
 光は私に背を向けて、走り出した。
 振り返らずに。――彼の元へ。
 昔見た映画みたいだ。そんな事を考える。
 痩せ我慢をして愛する女性を見送る男の物語。
 あの映画は嫌いだけど、今はスクリーンの向こう側の男の気持ちが少しは解
る気がする。
 そんな気がしてしまう。
 空を見上げる。雲一つ無い紺碧の空が一段と高い。
 少し強い三月の日射しを、卒業証書入りの筒で遮る。
 校庭に咲く桜が花弁を空高く吹き上げた。
 涙は出なかった。
「………こんなものかな」
 独りごちながら、私は校門に向かって歩き出す。
 ――その時。
 鐘の音が耳朶に届く。
 伝説の鐘の音、が。
 壮麗な、だけど幸せそうな音色で。
 光と彼の笑顔が頭の中で重なる。

「――おめでとう」

 私はそう言って、ひびきの高校の校門を出た。
 新しい自分になる為、に。
 今迄の彼の想い出を、小さな溜息と一緒に校庭に置いて。


 あれから、二年が経っていた。
 それが例え十年前でも昨日でも鮮度こそ違え、過去には変わり無いと思う。
 その昔良く行ったお茶屋で、
「久しぶりだね」
 二年前の過去が私の目前に現れた。
 少し背が伸びたが、優柔不断な笑顔は相変わらずだった。
「お久しぶり」
 私が、応える。
 何だか、笑みが零れてしまう。そんな笑顔。
「この前、光にも会ったわ」
「……そうか。随分と変わっていただろ?」
「そうね。綺麗になったわ」
 あの卒業式の後。
 私は光とは会っていない。別に彼の事が原因と云う訳、じゃない。
 ただ、進学した大学がひびきの市からずっと遠くにあった、だけ。
 その距離の分だけ、テーブルの向かい側の過去を忘れていた。
「君も随分変わったね。……髪、切ったんだ」
「ええ」
 彼の言葉に頬杖をついて、応える。
 そう。
 久しぶりに会った親友は、ショートヘアからロングヘアになっていて。
 私はロングヘアから、ショートヘアになった。 
  親友は、踵の高い靴を履いていて。
 私は、踵の低いパンプスを履いていた。
 二年と云う時間の結果がソレだった。
 全て、変わってしまう。――ある意味、残酷な迄に。
「あなたは変わった?」
「少し変わった。ウエストが五センチ増えたよ」
 身長はもっと伸びているけど、ね。
 苦笑気味に微笑う彼の言葉に、訂正を付け加える。
 変わっていくのは、何も姿形だけでは無い。
 人の気持ちすらも変わっていく。
 でも。
 変わらないでいるモノもあるのだと、ある日気が付いた。
 その為に私はこの街に戻ってきたのだから。
「光とは相変わらず、付き合っているの?」
「うん、まあね」
「ホント、あなたには光は勿体ないわ」
「昔の君はいつもそう言っていたね」
「今でも、よ」
 そう言って、お茶を飲む。彼も一緒に。
 昔のように。
 二人でデートの後で、このお茶屋に良く来ていた。
 今みたいに言葉を交わして、お茶を一服。
 こんな時間が、一番大好きだった。

 そして、彼の事も。

 友情や親しみ、なんて簡単な言葉では片付けてしまいたくない。だけど、こ
の気持ちが何なのか、と問われると何も言えなくなる。
 彼が、親友の幼なじみで無かったら。
 親友が、彼の幼なじみで無かったら。
 いっそ嫌いになれれば良かった、のに。
 そんな、二律背反。
 あの気持ちは、あの時の溜息と共に置いてきた筈なのに。
 残り火のように、ソレは私の中に残っていた。
 未練――みたいな、残滓。
「ねえ」
 口を開く。なるべく落ち着いて、ゆっくり、と。
 この言葉を伝える為に、私はこの街に戻ってきたのだから。
「私ね――――、」

 あなたの事が好きです。
 あの時から。
 そして、今も。
 誰にも――光にも負けないぐらい。
 あなたが、好き。

「……」
「……」
 ………言った。
 後悔はしていない。する筈が無い。
 ――なのに。
 どうして私は今、彼の顔が見れないのだろう。
 困った顔が見れないから?
 泣いてしまいそうだから?
 拒絶されるのが嫌だから?
 そんな自分に対する自己嫌悪が頭の中で、ぐるぐる、と回る。
 ふと、
「………水無月さん」
 彼の言葉。とても優しい声音。
 その声に俯いていた顔が、あがる。
 私の目の前の彼は、

「――――ありがとう」

 と、微笑んで優しく呟く。
 そして、ゆっくりと―――、


 暫くしてから。
 私達は並んでお茶屋を出た。
 駅に向かって歩き出す。一言も喋らずに。
 空を見上げた。
 相変わらずの紺碧の空だ。雲一つ無い。
 でも、あの時の気分みたいに少なくとも憂鬱では無かった。
「じゃあ、ここで別れましょう」
 坂の途中の交差点で、私は振り向いてそう言う。
「うん」
 彼が微笑んで、応える。
 交差点の信号は、赤。
 青になるのに、三十秒。
 私は彼を見つめ、彼は私を見つめている。
「ありがとう」
 彼がまた、呟く。

 ありがとう。
 俺も君の事が好きだったよ。
 あの時から。
 誰よりも、好きだったよ。
 その気持ちは嘘じゃない。
 本当に大好き、だったよ。

 彼の優しい、過去形の言葉。
 嬉しかった。あの時出なかった涙が、溢れる。
 だから、私も彼にこう言った。
「ありがとう」
 と。

 ありがとう。
 これであの時からの、あなたとの想い出に句切りが付けられる。
 今なら、あなたと光はとてもお似合い、だと言える。
 二人の幸せを、心から祈れる。
 あなたを好きだった事を、誇りに思える。

 信号が青に変わった。
「じゃあ、また」
「うん、また」
 私は坂を、上る。彼は坂を、下る。
 もう振り向かないで歩いていける。
 お互い、に。
 春風が私の背を、押した。

 ――お願いがあります。

 もし再びまた出逢える時が来て、
『幸せ?』
 と、訊いたら。
『幸せだよ』
 と、言って欲しいの。

 ――――それが何よりの返事、だから。 


                              〈了〉

2000.1.14.UP

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