サヨナラは、くちぐせ


 
 
 真夜中の告白を躊躇っていたのは。
 アナタの心を、確かめていたから。
 何も言わないあの人の瞳見つめて、私は一言。
「――サヨナラ」
 と、呟いて背を向けた。

「えーっ!? また振ったの、華澄?」
 それは、そろそろ春になろうと云うある日。
 親友――九段下舞佳の声が喫茶店の片隅に響く。後ろのウェイトレスの視線
を背中に感じる。
「舞佳……声、大きいよ」
「あ。ゴメンゴメン」
 口元に掌を押し当てながら、舞佳は浮き上がりかけた腰を肘掛け椅子に落ち
着かせた。表情の色が少しの驚愕と好奇に染まる。
「……でも、なんで? 非の打ち処の無い、いいオトコだったのに」
「なら、舞佳が付き合ってみる?」  
「あー、私はダメ。あーゆーのと付き合うと肩凝っちゃう」
 苦笑を浮かべながら肩の線まで腕を上げて、降参の仕草をする舞佳。
 そんな親友の仕草に微笑う、私。
「でも、一体何人振ったのかしらね。このお姫様は」
「……もうっ、他人が聞いたら私がまるで悪い女みたいじゃない」
「それくらい、いい女の特権よ。我慢しなさい」
 舞佳はカップをソーサーから取り上げて、コーヒーを飲む。
 私はダージリンの紅朱色の水面を、銀のスプーンで掻き回す。
「――ねぇ、舞佳」
「ん? なに、華澄」
 おもむろに口を開く。少し気が重い。
「私って……嫌な女よね」
「――華澄?」
「だって、私あの人の……ううん、他の人達の気持ちも知っていたのに」
 その数多くの気持ちに、応えた私の言葉は。

『――サヨナラ』

 こんな単純な言葉、だけ。相手は視線を外して、そして私は背を向ける。
 そうすれば、誰も呼び止めないで心の弱さを知らずにいられる。
 何度も、誰にでも、そうしてきた。
 僅かな迷いを見せない為の――臆病な、言い訳。
 少し冷めてしまった紅茶を、口へ運ぶ。
「『サヨナラ』が口癖なんて――ホント、可愛くない女ね、私」
「……華澄ッ」
「え?」
 顔を上げると舞佳が睨んでいた。だけど、怒ってはいない。
「そんなこと無いよ。――華澄はただ……」
 舞佳は少し言い淀んで、窓の風景に視線を巡らせる。
「……ただ、人一倍優しいだけ……だよ」
 視線を逸らせたまま、小さな呟き。
「…………舞佳」
「……それに、さ」
「?」
「きっと現れるよ。華澄の『サヨナラ』を止めてくれる人」
 私の『サヨナラ』を止めてくれる人――いるのかな?
 そんなコトを考えてみる。
 ふと。
 昔の事を私は思い出した。

 それは――七年前。
「……ほら、光ちゃん。ちゃんとお別れしなきゃ……ね」
 私の傍で泣きそうな――もう泣いている顔をした女の子。
 そして、私達と向き合うように立っている、男の子。
 その顔も泣き出しそうな雲行きを伝えて――それを無理に我慢している。
 肩と膝が僅かに震えているのが、解る。
 男の子、だから。泣くのを我慢しているんだね。
 私も何時も当たり前だと思っていた、この子と過ごした日常が失われる気持
ちが胸の中で、チクリ、と痛んだ。
「……じゃあ、サヨナラ……ね」
 なるべく優しく――心の動揺を悟られないように――私は掌を差し出す。
 その掌が不意に、
「……あっ」
 あの子が小さな掌で、はねのける。表情は涙を堪えたまま、で。
「華澄……お姉ちゃん……サヨナラ、じゃ……ないよ」
「………え?」
 途切れ途切れの、声。
「サヨナラ……じゃ…なくて……『またね』だ……よ」
 そう言ってあの子は笑顔を作った。くしゃくしゃの笑顔、を。
 小さな掌が差し出される。
 別れの挨拶では無く、それは――違(たが)えることの無い、約束。
「……そうね。―――じゃあ」
 私は目の前の小さな、涙を何度も拭った少し濡れた掌を――、

『――またね』

 優しく――微笑みながら、握り返した。


 そして七年後の秋。
 あの子は約束を守ってくれた。
 目の前で照れ隠しの微笑いを浮かべながら、
「――ただいま」
 と。
 一番大好きだった――宝石箱のようなあの頃が戻ってくる予感と共に。


「……すみ、華澄ってばっ」
「……あ? え?」
 意識が想い出から、引き戻された。舞佳が不思議そうに覗き込んでいる。
「な、なに? 舞佳」
「なに……じゃないよ。どうしたの、何だかとても嬉しそうな顔して」
 嬉しそうな顔? 指先を頬に軽く触れてみる。
 ――ほんの少し、熱くなっていた。胸の中から心地良い、刺激。
「ねぇ、なに考えていたの?――あっ、もしかして好きなヒトとか?」
「えっ、なっ、あの子は違うわよっ」
「『あの子』ぉ〜、ほほ〜っ」
 うっ、と後じさる、私。これは……拙いかも。
 意地悪そうな表情の、舞佳。
 その顔が――ふっ、緩んだように見えて、
「さーてと、そろそろバイトに行かないとね」
 と、言いながら立ち上がって歩き出していた。
 呆然として見送るそんな私に、
「……華澄」
 舞佳の背中が、もう一度振り向く。
「がんばってね。その子の為にも――勿論、自分の為にも、ね」
 そう言って舞佳は颯爽と、自動ドアの向こうに姿を消した。

 長年親友をやっていて多分、一番眩しい笑顔で。

 親友が消えたドアを数秒見つめて。
「……ふふっ」
 微笑みが、零れていた。
 先刻までの曇天の雨模様な気分が、窓に映る爽やかな蒼空に変わっていく。
 空を背景に翠緑色の芽ぶいた、樹が見える。
 ――春が、やって来るんだ。
 当たり前のことを考えてしまう。春は毎年やって来ているのに。
 でも。
 今年の春は、少し違うかも知れない。
 私は大学を卒業して、故郷のひびきの市に帰る。かつての母校の教師として。
 そして、ひびきの市には――あの子が待っている。
 何かが変わっていく予感と、淡い期待。
 凄く楽しみでもあり、ちょっと怖い気がする。

 『サヨナラ』から、さよならする日が来ようとしているから。

 それは予感ではなく――確信へと羽化していく。
 羽化した想いは色褪せたセピア色の過去の蛹を脱ぎ捨てる。
 軽やかな足取りで、私は喫茶店を後にした。
 テーブルの上に青磁のティーカップの僅かな紅茶と、


 ――私の可愛くない口癖を残して。


                               〈了〉

2000.1.27.UP


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